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矛盾するものの意味は同じ

世間一般で言われる良いこと、正しいことは不変ではありません。
 
例えば人に何かをしてあげることは良いことだとされています。
 
しかし、それで相手が努力することを放棄してしまうことになれば良いこことは言えなくなります。
 
また勉強し、知識を得ることは良いこととされています。
 
しかし、その知識を悪用すれば良いこととは言えなくなります。
 
あるもの一切には裏表があると言われます。
 
善悪、高低、強弱、明暗、寒暖、上下、出入、昼夜、男女、大小、自他、貸借、有無、得ると失う、押すと引く、ONとOFFなど。
 
どちらが正しくて、どちらが正しくないと決まっているものなど一つもありません。
 
その時々によって変わるものだと皆さん知っているはずです。
 
それぞれの物事には必ず矛盾するものが一つのものとして存在しています。
 
逆に言うと矛盾しないものは存在しないということです。
 
この事実からも矛盾するものは別々の無関係なものではなく、切っても切り離せない関係があるのがわかると思います。
 
これは教えにも言えることです。
 
以前、グル(導師)は矛盾することを平気で言うというと書きました。
 
グルは弟子の学びの状態により、正反対の教えを説くことがあります。
 
これは矛盾するものは別々のものではない、ということを体験的に理解させるためでもあります。
 
実際に私も「考えるな」と言われたと思ったら、次は「考えろ」と言われ、理解するのに苦労したのを覚えています。
 
「考えるな」と「考えろ」は同じだ、と言われたら皆さんならどう感じるでしょうか?
 
多分、ほとんどの方が私と同じように混乱してしまうでしょう。
 
『矛盾するものを一つとして繋ぎなさい』
 
『両極の立場に立ちなさい』と師匠は言います。
 
考えることと考えないことは正反対の行為であることは間違いありません。
 
ですが注目すべきは行為ではなく意味の部分です。
 
皆さんは考える時にどんな視点、立場で考えているでしょうか?
 
自分という立場だけで考えれば我善しとなり、不調和を引き起こします。
 
これに対してグルは「考えるな」と言います。
 
そして「考えろ」と言う場合、自分を含めたより多くの人の立場になりなさいと説くんです。
 
つまり意味の部分では調和という共通したものが前提にあるわけです。
 
グルは.行為の意味を見ています。
 
意味を見て、教えを説いているんです。
 
お釈迦様が弟子に対して行ったと言われる対機説法も同じです。
 
人は外側の行為ばかり見ているため、矛盾するものは別のものだと錯覚します。
 
外側だけに執着してはいけません。
 
あらゆる行為の内側である意味を見ることです。
 
結果に原因があるように、行為にも必ず意味があります。
 
意味が調和的であれば、どんな行為であっても正しいとグル達は言います。
 
親が我が子に厳しく接する時がありますが、その行為がまさにそれです。
 
まずは自身の行為に注目し、意味を見て下さい。
 
それに習熟してくると心が静かになってくるの実感すると思います。
 
なぜなら意味がわかるから、意味のないことをやめていくからです。
 
以下は日月神示の一文です。
 
 
日月神示
【黄金の巻 29帖】
心して怪しいと思うことは、たとえ神の言葉と申しても一応は考えよ。
神の言葉でも裏表の見境なく唯(ただ)に信じてはならん。
サニワせよ。
薬、毒となることあると申してあろうが。
馬鹿正直、まことの道見失うことあると申してあろうが。
道は易し、楽し、楽しないのは道ではないぞ、奉仕でないぞ。
 
 
【上つ巻 20帖】
⦿(かみ)がこの世にあるなれば、こんな乱れた世にはせぬはずざと申す者沢山あるが、⦿には人の言う善も悪もないものぞ。
よく心に考えてみよ、何もかもわかりてくるぞ。
表の裏は裏、裏の表は表ぞと申してあろうが、一枚の紙にも裏表、ちと誤まればわからんことになるぞ、⦿心になれば何もかもハッキリ映りて来るのざ、そこの道理わからずに理屈ばかり申しているが、理屈のない世に、⦿の世にして見せるぞ。
言挙げせぬ国とはそのことぞ、理屈は外国のやり方、⦿の臣民言挙げせずに、理屈なくして何もかもわかるぞ、それが⦿の真の臣民ぞ。
足許(あしもと)から鳥が立つぞ、
鳥立ちて慌てても何にもならんぞ、用意なされよ、上下にグレンと引っくり返るぞ。
上の者下に、落ちぶれた民上になるぞ、岩戸開けるぞ、夜明け近づいたから、早う身魂の洗濯してくれよ、⦿の申すこと千に一つも違わんぞ。
 
 
【月光の巻 55帖】
そなたはいつも自分の役に不足申すクセがあるぞ。
そのクセ直して下されよ。
長くかかってもよいから、根の根からの改心結構ぞ。
手は手の役、足は足、頭は頭の役、それぞれに結構ぞ。
上下貴賤ないこと、そなたにはわかっているはずなのに、早う得心して下されよ。
そなたはこの神と深い縁があるのぢゃ。
縁あればこそ引き寄せて苦労さしているのぢゃ。
今度の御用は苦(く)の花咲かすことぢゃ。
真理に苦の花咲くのであるぞ。
因縁のそなたぢゃ、一聞いたなら十がわかるのぢゃ。
言われん先にわかってもらわねばならんぞ。
知らしてからでは味ないぞ。
十人並みぞ。
今度の御用は千人力、、十人並みでは間に合わんぞ。
人間の目には一方しか見えん。
表なら表、右なら右しか見えん。
表には必ず裏があり、左があるから右があるのぢゃ。
自分の目で見たのだから間違いないと、そなたは我を張って居るなれど、それはただ一方的の真実であるぞ。
独断は役に立たんぞと申してあろうが。
見極めて上にも見極めねばならんぞ。
霊の目も一方しか見えんぞ。
霊人は何でもわかっていると思うと、大変な間違い起こるぞ。
一方と申しても霊界の一方と現界の一方とは、一方が違うぞ。
そなたはなかなかに立派な理窟を申すが、理窟も必要ではあるが、沫のごときもの、そなたの財産にはならんぞ。
体験の財産は死んでからも役にたつ。
懺悔せよと申しても、人の前に懺悔してはならんぞ。
人の前で出来る懺悔は割引した懺悔。
割引した懺悔は神を騙し、己を騙すこととなるぞ。
悔い改めて下され。
深く省みて下され。
深く恥じ畏れよ。
心して慎んで下されよ。
直ちによき神界との霊線がつながるぞ。
霊線つながれば、その日その時からよくなってくるぞ。

気持ちが曲がったら霊線が切り替えられる。
 
 
【月光の巻 61帖】
そなたの苦労は取り越し苦労。
心配りは忘れてならんなれど、取り越し苦労、過ぎ越し苦労は要らん。
そうした苦労は、そうした霊界をつくり出して、自分自身が要らぬ苦労をするぞ。
何事も神に任せよ。
そなたはまだ神業の取り違いして御座るぞ。
そなたの現在与えられている仕事が神業であるぞ。
その仕事をよりよく、より浄化するように行じねばならんぞ。
務めた上にも務めねばならん。
それが御神業であるぞ。
そなたはそなたの心と口と行が違うから、違うことが次から次へと折り重なるのぢゃ。
コト正して行かねばならんぞ。
苦を楽として行かねばならん。
苦を心するから苦しくなるのぢゃ。
楽を心すれば楽と出てくるのぢゃ。
ちょっとの心の向け方、霊線のつなぎ方ぞ。
そなたは悪人は悪人ぢゃ。
神として拝めとは無理ぢゃと申しているが、一枚の紙にも裏表あるぞ。
そなたはいつも裏ばかり見ているから、そんなことになるのぢゃ。
相手を神として拝めば神となるのぢゃ。
この世は皆神の一面の現われであるぞ。