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記憶を知るものが私

私達は五感により物事を知覚します。
 
知覚したものに対して思い、考え、判断することで何かしらの結論を出しています。
 
これを日々、意識的にまたは無意識に行っているのが人間です。
 
では何を元に思い、考え、判断しているのかというと記憶が元となっています。
 
記憶は人それぞれ違うというのが当然の事のように認識されています。
 
ですが同じものを見て、同じことを聞いて何故、同じ判断にならないか不思議に思ったことはないでしょうか?
 
記憶とは体験の積み重ねです。
 
体験が人をつくっていると言われるのはそのためです。
 
体験は神により与えられるもの故に記憶も与えられたものです。
 
人は体験を自由に選んでいると思っています。
 
しかし、選んでいるのは皆さんの記憶です。
 
選んでいるようで、選ばされているんです。
 
この事実から人に自由はないと思ってしまうかもしれません。
 
ある意味において正解ですが、これは自分は記憶だとしていることが前提の話です。
 
皆さんは記憶なのか、それとも記憶を知るものなのか、どちらでしょうか?
 
皆さんは記憶を客観的に見ることが出来ます。
 
つまり記憶とは別の所にいるから記憶を知るもの、記憶を使うものです。
 
記憶を使うものは記憶に使われることはありません。
 
故に記憶から何の制限も受けないため自由です。
 
人は本来、自由です。
 
記憶や思考、感情などの個人性に属するものと同化するから不自由になるんです。
 
以下は日月神示の一文です。
 
 
日月神示
【雨の巻 3帖】
何事も我がしているなら自由になるのであるぞ。
我の自由にならんのは、させられているからざぞ、このくらいのことわからんで神国の臣民と申されんぞ、国々所々に宮柱太敷キ立てよ、たかしれよ。
この先は神示に出したこと用いんと、我の考えでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出している臣民ばかりであるぞ。
従うところには従わなならんぞ、従えばその日から楽になってきて来るのざぞ、高い所から水流れるようにと申して知らしてあろうがな。
 
 
【白銀の巻 5帖】
人間に自由はないのであるぞ。
真の自由は、大神にのみあるものぞ。
大神の自由の一部が御喜びと共に神に流れ入り、神に流れ入った自由は、また神の喜びとなって人間に流れ入るから、人間自身は自由を持っていると信ずるのであるぞ。
本質的には自由はないのであるぞ。
人間には自由の影があり、反映があるのざ。
それを人間は自由と心得ているのであるぞ。
自由の反映あるから、悪にも善にも、陽にも陰にも為し得るのであるぞ。
また進歩、弥栄するのであるぞ。
悪自由を、人間は自由と心得ているが、それは自由ではなく、自分自身を首くくるものぞ。
善自由こそ真の自由であるぞ。
自由は神から流れ出ると申してあろう。
 
 
【黒鉄の巻 25帖】
人間の智の中には悪も善も入るぞ。
入るからこそこれは善ぢゃ。
これは悪ぢゃとわかるのぢゃ。
人間の自由は其処にあるのぢゃ。
自由なければ発展ないぞ。
弥栄ないぞ。