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10.私だけへのメッセージではなかった。

奈良の天河に滞在し参拝した、天河大弁財天社。


それが、この旅の目的地ではないことが、天河村洞川滞在の最終日にわかります。

神奈川県から奈良県まで、母1人で幼い息子2人を連れての
<祈りの旅>。

お宿のご主人が、ここをお参りしたいきなさい。
と勧めてくださったのが、

女人禁制の修験道の山。

高僧の役行者たちが最後の業の締めくくりでこもった山。

お忍びで、日本の国の政治をおさめる方々が参拝するお寺さん。

ご親切にも、お宿のご主人が、道案内をしてくださり、
母公堂にたどり着きました。

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「今から一千三百有余年前、白鳳年間役行者と云う山岳修験者が、熊野本宮から大峯山脈を南から北の山上ヶ岳に向かい修行をしていました。これを気遣った役行者の母、渡都岐(とつき)白専女(しらとうめ)は、役行者の弟子後鬼の案内で葛城山の麓、茅原から険しい峠や山河を越えて役行者が山籠りして修行している山上ヶ岳に一番近い、洞川の蛇ノ谷まで会いに来ましたが、此の谷を渡ろうとすると、一匹の大蛇が行く手を阻み、どうしても渡ることが出来ません。後鬼と替わるがわる何度試みても駄目でした。
これを弟子の前鬼を通じて知った、孝行心の篤い役行者は、悩みに悩んだ末、このままでは母は私を心配してどんどん危険な山に入ってしまう。蛇ノ谷に庵を建て母に住んでもらい、身の回りのことを後鬼に頼み、私自身が時々母を訪ねることにすれば、母も安心して暮らしてくれるだろう。
早速、洞川の人たちに頼み、母の庵を建ててもらい、母公堂と庵の名を付けました。重ねて母を思う心から、母が後を追わないようにと「女人入山禁止の結界門」を建てました。これが「女人禁制」の始まりであり、一千三百有余年後現在も守り続けられている歴史の重みであります。現在、誤解を招いているような、「男女差別的」解釈でなく、役行者の母を思う優しい心の現れであると、私共後鬼の子孫は思っています。」(写真・文:天河村公式サイト観光ページより)


そして、弥勒菩薩が安置されている、修験道のお寺さん。

どちらにお参りしても、
よく来てくださいました。と歓迎してくださり、
般若心経をあげてくださるのです。

毎朝、毎夕、日々の暮らしの中で、
見様見真似で唱えていた般若心経。

特定の宗教を信仰はしていないけれど、
草場一壽さんの陶彩画展にて求めた、
弁財天、アメノウズメ、虹色の龍、弥勒菩薩、そして、聖観音菩薩。


その全ての存在がまつられている場所に導かれ、そして、一緒に般若心経を唱える旅。

不思議で仕方なったことを覚えています。


とくに、この母公堂の伝説は、
のちに、私たち親子に大きく関わるメッセージとなります。


続きは、また、明日。


今日も読んでくださり、ありがとうございます。

愛しい日々を。

咲多美唯喜


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