生きるのが苦しい人へ 3

生病老死の苦しみを解決すべく龍雲さんの下で聴聞する事になりました。

FBのグループに入り2週間後の事でした。聴聞の後に信心の沙汰と言って法話の疑問や自身の信心が本物かどうか話し合う場面があります。

そこで私はまだ救われてないと思っておりその理由を述べました。

死んでも極楽行けると思えない、阿弥陀仏を信じられない、本願が信じられない、死の恐怖が消えない…などです。これらが本願疑う心、疑情だと思ってました。ですが

「それは全部煩悩だよ、阿弥陀仏のお目当て」

と言われてとんでもない聞き間違いをしてました。助からない理由でなく助けていただく理由だったんだと。信じられない私を助けるのが南無阿弥陀仏だと聞くのが聴聞でした。

そして私は仏願の生起本末を疑い無く聞けるようになってました。

阿弥陀仏はどのような私も助けてくださるなんて有難い仏様なんだ〜南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

そして生きる苦しみが無くなった…というよりそれが問題にならなくなりました。

何故なら私の苦しみは阿弥陀仏が助け下さる理由だからです。死の恐怖もそのままですが、南無阿弥陀仏によって極楽に生まれるのでもう問題ではないです。

そこにあった世界は私が想像してたのとは違いましたが間違いなく生死の問題は解決され喜べる世界でした。

仏教では諸行無常と言われます。全ての事は常が無い続かない事です。財産も家族も友人も娯楽も心(気持ち)もそして肉体が必ず死ぬのですからこの世の事に執着すれば必ず別離の苦しみを受ける事になります。

この世娯楽、欲を満たす事は一見とても魅力で楽しく実感が湧くので没頭しがちです。ですがこれらは縁が離れたり自分が飽きたりして続かないことばかりです。私達の幸せのようで同時に苦しみの原因でもあります。私はそれらが悪いとは思いません。という俗世間の娯楽の方が楽しいし好きです!笑

ですが苦しい時そして人間誰もが嫌な死に対してこそ南無阿弥陀仏の救いは大変頼もしく、嬉しく、申し訳なく、暖かく、有難いものです。

この救いは自力で信じてる訳ではなく。他力によって疑いが無くなるので崩れる事はありません。

こんな話は狂ってると感じるかもしれません。というか自分で思います。ですが南無阿弥陀仏の救いは私の身にあった話です。そしてこれから南無阿弥陀仏に出会う人が救われてく教えです。

以上念仏を喜ばせて頂けるようになりましたのでその喜びを広まってほしいと思いかかせていただきました。南無阿弥陀仏


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