[都祁山口神社+サムハラ神社+サムハラ神社 奥の宮+益田岩船] 辿り着く神様
無性に訪れたくなるような神社があれば、それはその土地に祀られている神様からお声がかかっています。
毎朝の写経の最中に千葉寺が現れるようになり、「坂東以来、随分長らく行っていないから行こうかな」と思いながら時間はどんどんと過ぎていき、重い腰があがったのは、毎朝のように千葉寺が写経中に出てくるようになりはじめたころです。思い切って、訪れてみた日からそれ以降、全く千葉寺が写経中に現れなくなりました。
また、同じように曹洞宗の總持寺が気になりつつも、「いつか時間を見つけて行こう」と西国の總持寺を思い浮かべていると、実は、目と鼻の先に瑩山紹瑾禅師はいらっしゃることをネットで検索して知ることになりました。
即、總持寺を訪れてみると、その後、總持寺が写経中に現れることはなくなりました。その後、大阪の總持寺へも久々に訪れてみました。昔に比べると境内はとてもきれいに整備がされていましたが、昔と変わらず、西国三十三観音参りをされる方々を日々、大きな力で受け入れておられる観音様の包容力を感じる土地でした。
また、朝の写経中に「鎌倉の鬼門と裏鬼門を訪れたことが無いな・・・」と思い、本覚寺と荏柄天神社へ出向いてみると、荏柄天神社をお掃除されている方より「次はどこへ行くの」と声をかけてもらい、「一遍上人の遊行寺へ足を延ばそうかと考えています」と伝えると、「私の宗派は遊行寺で・・・」と、「ゆうぎょうじ」という発音ではなく、「ゆぎょうじ」という発音も教わり、一期一会ながら楽しい会話になりました。
そうかと思えば、お声がかかっているからと、その土地に赴いたとしても、もう目と鼻の先ほどの距離であっても、辿り着けない神様もいらっしゃいます。
物理的に辿り着けない場合もあれば、精神的に諦めてしまう場合もあり、これは神様から試されているのではなく、自分の過去の魂が邪魔をしているのかなと最近、考えるようになりました。
先日、太陽の道にあるという都祁山口神社へ行こうと、道路標識を確認しながら道を進みましたが、なぜか目的地に辿りつけず、途中で諦めてしまいました。私の性格上、物事を途中で投げ出すことはないため不思議な気持ちでしたが、今から思い返すと、「たどり着けないなら、もういいか」という少し投げやりな気持ちになっていました。
モノゴトには起承転結があり、起があれば必ず結はやってきます。
その一か月後、再チャレンジをしてもやはり辿り着けない、そして案内を聞いても辿り着けない中で、前回と今回の違いは、今回は歩いてでも目的地に行くという意志の強さでした。
またこの経験から学んだことは、今でなくても、時期が到来したら出来ることもあるという解決策の出し方です。人間は自分の思い通りにいかないことがあると、思い入れが強ければ強いほど「鳴かないなら鳴かしてやろう」という気持ちになりますが、こういったケースでは押すのをやめて、一旦停止をしたほうが良さそうです。一旦停止すると、なぜ達成したいのかという気持ちの整理もしやすくなり、「出来ないならもういい」といった投げやりな気持ちも薄まります。そしてこれが私が現世で昇華すべきカルマということにも気がつきました。
思い通りにいかないことがあると、押すことだけに集中をするようになってしまい、なぜ押していたのかを忘れてしまいがちです。また押すことに必死になればなるほど、そのことにストレスさえ感じてしまうようになり、投げやりな気持ちになります。
思い通りにいかないときは、今はその時期ではないということと、必然性に応じて、その時期は、再来すると思い、諦めるのではなく、一旦停止をしてください。そしてこの一旦停止という時間はまさに神様が私たち人間に学びを与えるためにくださった、貴重な時間であることに気がつれれば一つカルマが落ちたと思ってください。
都祁山口神社(つげやまぐちじんじゃ) ー 奈良市都祁小山戸町
山の神として知られる大山祇命が御祭神として祀られており、都祁山口神社は大和国に数十か所ある山口神社の一つである。都祁直(つげのあたい)が、闘鶏(つげ:都祁)国の造(みやつこ)となり、その祖神となる神武天皇の皇子 神八井耳命(かんやいみみのみこと)を氏神様として祀ったことが起源とされる。都祁は太陽の通る道としても知られており、小さな森には、森神(もりがみ)さんと呼ばれる太陽神が一休みできるような場所が作られている。
その裏山には「御社尾(ごしゃお)の磐座」という巨石があり、大和朝廷が成立する以前の太古の昔より、大和では三輪山信仰のように山を御神体とした神祀りが行われていたと言える。また御社尾は水分神(みくまりのかみ)が白龍となり降臨した磐座との言い伝えもあり、その水分神は都祁水分神社として友田の阪窪山に移されたとされる。
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村の中に入った途端、道も細くなり、心のどこかで、「行くのをやめようかな」と曇りがちになった瞬間に、「ご縁がない、やめよう」と引き返したのが1か月ほど前です。
以来、気になる神社の一つとなり、いつかご縁があれば行こうと思いながら、チャンスが訪れたため、再度都祁山口神社へ車を走らせますが、やはり同じ場所で迷い子になりました。
道すがら地元の方々を見かける度に、神社までの行き方を聞いては見るものの、三者三様、十人十色というか、親切な方々でしたが道案内はバラバラで、結局、その都祁神社らしきエリアをウロウロとドライブをした結果、元の迷った場所まで車を戻し、最終的には歩いていくことにしました。
歩き始めると一か所だけが道が細く、また複数の道が神社へ向かってつながっているため、地元の方々が車でもいける且つ、様々な行き方を教えてくださった理由がわかりました。
拝殿・本殿へ向かう参道では神様より「ゆっくりと、周りを見て、歩いてほしい」と声をかけられ、また生き急がずに「ゆっくりと、周囲の木々を見て、今を生きてほしい」とお告げがありました。
確かに、都祁山口神社の参道は、まさに皇大神宮別宮の瀧原宮の参道のような清らかさと清々しさがあり、そして神様がこの参道をとても気に入っていらっしゃることが、拝殿を背に真っすぐにのびる参道であることを見て思いました。
社殿を出る前に足元を見てみると、日向ぼっこをしているトカゲさんに出会い、神様が眷属を遣わしてくださったのかと思い、神様に呼ばれ続けて、そのご縁とつながれたことに感謝をしました。
サムハラ神社(さむはらじんじゃ) ー 大阪府大阪市西区
田中富三郎(たなかとみさぶろう)氏が出身地である岡山県津山市に古くより伝わるサムハラ大神を信仰したことが始まりとされ、また戦争を通して何度も命を救われたのはその霊験を賜わったためとしてサムハラ信仰の発起人となる。津市にはその奥之宮があり、今では辿り着けない神社の一つとしても知られている。
御祭神には天之御中主大神(あめのみなかぬし)、高皇霊産大神(たかみむすひ)、そして 神皇霊産大神(かみむすひ)といった宇宙に最初に現れた神様として造化三神と言われており、高皇霊産大神は瓊瓊杵尊につながる天皇家の祖神として、また神皇霊産大神は大国主命と一緒に国造りをした少名彦名命の祖神として知られており、日本の創世に携わった神々が祀られている。
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聞いたこともなかったサムハラ大神ですが、厄除けや交通安全の神様として崇敬され、特に交通事故が多い辻や角に祀られているようです。サムハラ神社の奥之宮からの帰り道で、カーナビが指す道を通っていると、いきなり目の前にサムハラの文字が現れ、その後、その土地を調べてみると交通安全の神様として祀られているようでした。
また御神環という指輪のお守りが有名であり、サムハラという神文字で書かれた指輪は厄から身を守るという守護の役割を持つとされ、とても入手が困難なリングだそうです。ご縁があれば賜りたいと思いますが、毎朝、サムハラの神文字を書いたり、見ているだけで充分にその御神徳を頂戴できるため、身を守りたいことがある方は、漢字で「サムハラ」と書き綴ってみてください。
益田岩船(ますだいわふね) ー 奈良県橿原市白橿町
石船山の頂上近くにある巨大な石造物は岩の加工法や穴の大きさより古墳時代末期に作られた造形物とされており、未だにその目的や、もともと今の土地にあった石なのか、誰かが運んできたのか等、なぞが多い。
石の上には二つの穴が開いており、石柱を建て古代祭祀をおこなっていたや、蘇我馬子が眠るとされる石舞台古墳や斉明天皇やその娘である間人皇女が眠るとされる牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)のような石室として作れたが、石に欠陥が見つかりそのままの状態で今まで放置されてきたといった様々な説がある。
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神様が宿る磐座或いは宇宙との交信ツールとして岩石がアンテナとなり、宇宙にあるエネルギーを降ろしてくる磐座、更には私たちの祖神様は高天原から石の船で宇宙を旅していたといったホツマツタエにある伝説・伝承を耳にする度、磐座の存在に対してとても興味を持ち始めました。
特に、宇宙のエネルギーを降ろしてくるアンテナという部分では、確かに山の上に磐座を祀る御神体も多くあり、今の私たちには退化してしまった感性を私たちのご先祖様はもっていたのかなと思います。
益田岩船の周囲をぐるりと回り、その大きさに圧巻していると、斜め上の竹林より「こっちに来て」という声が聞こえてきたため、「そっちの上には何かまだあるのかな?」と思い斜面を上がってみると、その前方には普通の竹林が広がり、振り向いてその背後に見えたのが穴が二つ開けられた益田岩船でした。
その一方で母は帰りの途につこうとしているため、この益田岩船の本当の姿を見てもらおうと思いつつ、母には岩船の声が聞こえていなかったのかな、と思いました。こういった出来事を通して、以前までは空耳かなと思うような事象が今ではそうではなく、神様や眷属からのメッセージとして受けとれるようになってきたため、私自身のエネルギーが高くなりつつあるのかなと、実感します。この土地で磐座の神様と通じることが出来たことに感謝をしました。
私たちは高次である宇宙へつながればつながるほど、よりパワフルな引き寄せの法則を体現することができ、ひいては物事を動かすために必要なエネルギーを養います。そのエネルギーをつかみ取るためにも、中今(なかいま)を生きることです。中今とは過去を振り返らず、未来へ望みを託すこともなく、今に向き合い、今を全力で生きることです。高次へつながることは容易いことではありませんが、成し遂げた先には必ず、浄土があります。常に中心は私であり、あなたです。
今を大切にお過ごしください。
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