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[葛城坐一言主神社+鴨都波神社+高天彦神社+多度大社+出雲大神宮+陶芸空間 虹の泉] たどり着くべき土地

私たち人間は日々、笑顔で楽しく安穏に生きたいと神様に様々なお願い事をしており、こと行き詰まったり、困ったことが起きると今度は神様を頼るようになります。実は笑顔や楽しさ、平穏さとは自分自身が作れるもの(I do it)・作り出せるもの(I can do it)であり、その作り出す力を生まれた瞬間に神様から授けられています。

そんな折、自分の身の丈がわからなくなったり、自分の考えや想いが見えなくなったりする日はやってきます。そんな状態が出てきたなと思ったころには是非、氏神様を訪れてください。神様に頼ったり、助けてもらうのではなく、私たちの気枯れ(穢れ)を祓ってもらうことで、神様から授けられたエネルギーの源を自分で見つけ出せる導きをもらってください。今回はその第一波となる導きの神々を紹介したいと思います。


葛城坐一言主神社(かつらぎにいますひとことぬしじんじゃ) ー  奈良県御所市

第21代 雄略(ゆうりゃく)天皇一行が葛城山で狩りをしていると同じ装束の同じ所作をする一行が現れ、その中の一人が「吾(あ)は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なり」と告げる。その言霊に恐れなおした天皇は着ていた服と太刀を一言主に献上した後、その場所に葛城坐一言主神社を創建したことが謂れである。一言主大神は一言の願いであっても叶えてくださる言霊の神様として知られている。
和歌山・大阪・奈良にまたがる葛城山は、多くの神々が住まう山として古来より崇められており、修験道の開祖 役行者(えんのぎょうじゃ)がはじめて修行を積んだ土地でもある。

葛城坐一言主神社
宝来石
お金が貯まるといわれる石

境内には3つの蜘蛛塚があり、その昔、一匹の大きな蜘蛛が村を荒らしてまわっては村人を困らせていたところへ一言主神が通りかかり、蜘蛛を退治したという伝説と、神武天皇東征の条で神武が土蜘蛛と戦い、退治したという神話の二つが語り継がれており、退治された蜘蛛は後に復活しないよう、体を3つに切り分け、別々に埋めた跡を蜘蛛塚という。

神武天皇が戦ったとされる土蜘蛛は実際の蜘蛛ではなく、その土地の豪族を例えたものとされており、また戦いの際に使われた武器を葛(かづら)のつるから作ったという謂れより葛(かつら)城と地名が名づけられた。

境内にある蜘蛛塚(胴体部分)
参道にある蜘蛛塚(肢体部分)
社殿の下にある蜘蛛塚(頭部)

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雄略天皇と言えば、大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)という異名をもつほどの暴君であったとされ、気に入らない者がいればすぐに処刑をしたり、反抗的な豪族には武力行使をしたという専制君主のイメージがある一方、恋多き天皇でもあったようです。そんな天皇を一言で打ち負かした一言主の霊力は相当なものだったようです。

また葛城地方は古代豪族 葛城氏の出自であり、5世紀の中央豪族で知られる蘇我氏や平群氏をはじめ、許勢氏や紀氏と同じ、武内宿禰(たけうちのすくね)を始祖としています。武内宿禰と言えばかなりの長寿で知られており、第12代 景行・第13代 成務・第14代 仲哀・第15代 応神・第16代 仁徳の5代の天皇と、応神の母である神功皇后に仕えた忠臣であったことでも有名です。

そんな葛城への思い入れが最も強かった豪族と言えば蘇我本宗家 馬子(うまこ)であり、その割譲を第33代 推古天皇へ求めますが結局、許可はおりませんでした。蘇我馬子は父 稲目(いなめ)と葛城氏の女性との間にもうけられた嫡男であったため葛城への権利を主張したものの、当時の葛城地方は飛鳥(奈良)から交易港である難波(大阪)へ出るための交通の要衝であったため皇族の領土のままとなりました。

丁未の乱(ていびのらん)をはじめ、多くの大願を有言実行してきた蘇我本宗家ですが、馬子の一つの願いは生涯叶うことはなく、乙巳の変(いつしのへん)で一族は滅びてしまいます。記紀神話で描かれる蘇我一族は権力を専横したり、聖徳太子の子孫を滅亡させた等々、あまり良い話を聞くことはありませんが、その一方、稲目(いなめ)、馬子、蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)らの蘇我四代が実は、大化の改新/律令制の礎を作ったことや、石舞台や飛鳥寺といったユニークな遺産を今の私たちに残してくれたかと思うと、そんなやんちゃな蘇我一族にほくそ笑みがもれます。

葛城古道は彼岸花の名所



鴨都波神社(かもつばじんじゃ) ー 奈良県御所市

第10代 崇神(すじん)天皇の勅により、太田田根子(おおたたねこ)の孫 大賀茂都美命(おおかもずみのみこと)が創建したとされ、ご祭神には積羽八重事代主命(つみはやえことしろぬしのみこと)と下照姫命(したてるひめのみこと)を祀る。また古代豪族 鴨氏と葛城氏にゆかりがある神社として、高鴨神社(上鴨社)・葛城御歳神社(中鴨社)と並び、下鴨社と呼称される。

鴨都波神社 本殿

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賀茂都美命は鴨(加茂)一族のご祭神であり、また積羽八重事代主命が大物主(別名 大国主)の子供であったりと、鴨都波神社が国津神・出雲系の神々を祀っていることがわかります。そして鴨都波神社は大神神社の別宮としても知られており、崇神天皇の御代に大流行した疫病が大きく関わっていることです。その疫病に困り果てた崇神天皇が神託を行ったところ、その夜、崇神天皇の夢枕に大物主が現れ、大物主の子孫にである大田田根子に大物主を三輪山に祀らせると、国が安らかに治まるだろうと告げました。その後、大田田根子を探し出し、当時、宮中に祀られていた大物主を大神神社へ祀ったところ、疫病が一気に沈静化されたという話です。それが所以で鴨都波神社は大神神社の遙宮にあたります。

祓戸神社

太古の昔より多くの神々が葛城山地に宿っていたのかと思うと、蘇我一族が必至で葛城を取り戻そうとした気持ちがよくわかります。



高天彦神社(たかまひこじんじゃ) ー 奈良県御所市

天照大神をはじめ、天津神が住むという高天原(たかまがはら)が地上にも存在していたという伝説があり、その一つは宮崎県の高千穂であり、もう一つが奈良県御所市高天(たかま)と言われている。高天彦神社はまさにその高天原に鎮座しており、天地開闢の折に現れた造化三神の一柱である高皇産霊神(たかみむすびのかみ)をご祭神とする。白雲峰をご神体としており、大神神社と同様に本殿を持たず、拝殿から神奈備へ敬拝する。

高天彦神社

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拝殿を背に写真撮影

拝殿を背に写真を一枚撮っていると、どこからともなく「右に行ってみて」という言霊が湧き出てきたため、階段を下りて右へ行くと、拝殿に隠れるように座する磐座がお出迎えをしてくれました。

神の依り代 磐座

いつもは白雲峰にいらっしゃる神様から、「今、この磐座へ降りてきてるから、会いにおいで」と声をかけてもらったようです。以前、蝶々や鳥や蛇といった眷属を通して神様は私たちに語りかけてくださるという話をしましたが、磐座の場合、宇宙と地球や地球にいる生物たちと交信するためのアンテナの役割と持つと言われています。高天彦神社の磐座を通して、「いつも高次元の宇宙から見ているよ」と、再確認をもらったようでした。



多度大社(たどたいしゃ) ー 三重県桑名市

伊勢の皇大神宮・内宮に祀られている天照大神の御子神である天津彦根命(あまつひこねのみこと)とその御孫神の天目一箇命(あめのまひとつのみこと)が祀られていることより、伊勢神宮との関係は深く、「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と古くより謳われ、北伊勢大神宮としても知られている。

本宮と別宮を合わせて「多度両宮」と呼称する
本宮

私たちの願いを神様に届けるという白馬伝説があり、特に5月4・5日に行われる「上げ馬神事」は、その年の豊作・凶作を占う神事として有名である。

多度大社 神馬

古来より馬は神様の乗り物と考えられており、雨乞いのときには黒馬を、雨が止んで欲しいときには白馬を奉納する習わしがある。

神馬絵馬 丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)

奉納された馬を「神馬」と書いて「しんめ」と呼び、その神馬が木製の馬形や板に馬の絵を描くようになったことが絵馬の始まりである。

神馬絵馬 香取神宮(かとりじんぐう)
神馬絵馬 往馬大社(いこまたいしゃ)

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多度大社の「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」をはじめ、「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」、そして「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊をかけねば片参り」といった伊勢参りを結願させるために、その祖神を祀る多賀大社と伊勢神宮の鬼門を守る朝熊岳金剛證寺へ詣でることを促す俗謡が流行ったそうです。

多賀大社へ参拝した折、「多賀は多賀でも、お多賀でござる」と両親が言いながら参道を歩いていた記憶があり、こういった俗謡を謳うことでその土地や神様への愛着が湧いてくることが不思議です。

本殿へ向かう途中、「こっちの道を通って」と言霊が来たような気がしたため、寄り道をしてみると、そこには兄弟の木々たちがまるで追いかけっこをしているような楽しい遊びのエネルギーがあふれていました。

写真としては静止画像ですが、私には子供のような木々たちが今にも動き出しそうに映ります。


おまけ

陶芸空間 虹の泉(とうげいくうかん にじのいずみ)ー 三重県松阪市

陶芸家 東健次(あずまけんじ)さんが生涯をかけた「虹の泉」は、自然の中に陶芸という創造物を使って東さんの世界を具現化させた空間アートである。

「日本には独自の文化を育てる土壌がなく、感傷的・伝統的な文化に頼っていてヨーロッパの文化の表面を真似るのみである」と日本から飛び出し、アルゼンチンにて作品に取り組みはじめるが、逆に、その懐疑的になっている自分自身が日本で、日本の文化に挑戦し続けることで、日本の伝統文化のすばらしさを自分の手で表現したいと帰国後、故郷である三重県をベースに作品へ没頭しはじめる。

作品には人や雲、神話の世界より飛び出した老若男女を問わず、様々な形や色が空間に表現されており、正面にそびえ立つ巨大な壁版には2,000枚以上の陶板が使われている。

35年もの歳月をかけて制作された陶アートの一部に「イリスの壁」と呼ばれるゾーンがあり、地元の方や有志者により購入された陶板(1枚 4,000円で購入)を壁に貼り付けることで虹の泉の製作費とした。正門から向かって右の壁伝いには陶板を購入された皆さんの作品が所狭しと並んでおり、計1万枚以上の陶板がある。

東さんが亡くなった2013年以降、陶板は増えない。

雲上の椅子
虹の泉全体を眺めることができる

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虹の泉とは不思議なご縁で結ばれているようで、皇大神宮の遥宮 伊雑宮さんへの道中でたまたま、目に入ってきた光景でした。完全に自然と空間の中に溶け込んでいるせいか、気が付く人は気が付きます。ところが一旦、その空間に気が付くと、吸い込まれるように虹の泉に入り込みます。

時系列に見ると制作自体は完全に静止していますが、東さんが挑戦し続けた陶作品は今もなお、脈々とこの土地で息づいています。ご縁のあるものを虹の泉に引き寄せて、誘い込んで、溶け込ませて、そして笑顔にさせたり、寂しくさせたり、興味を持たせたり、ぞくっとさせたり、考え込ませたりと、鑑賞者の一人ひとりがを自分を軸を360度、心も体も回転させながら、時折、大空を見上げては深く呼吸をして・・・、虹の泉という自由自在なエネルギーの空間の作品の一部をになっています。

東さんの日本の伝統文化への挑戦とは異物の中に自分を溶け込ませる、すなわち古来からの日本人特有の考え方である「調和」を、身をもって体現できる空間を、虹の泉に具現化させようとしたのかな、と思いました。



出雲大神宮(いずもだいじんぐう) ー 京都府亀岡市

ご祭神に大国主命(おおくにぬしのみこと)と三穂津姫尊(みほつひめのみこと)の二柱を祀り、出雲大神宮から出雲大社へ勧請をしたという説より「元出雲」と言われる。三穂津姫命は造化三神の一柱である高皇産霊神の娘神であり、大国主が天津神の神々に国譲りをした際にご縁があり大国主の妻となったと伝わる。そういった背景により、人と人とのご縁をはじめ、人や物事を結ぶエネルギーが強く持つ神社と言える。

ご神体となる御蔭山(みかげやま)には国常立尊(くにとこたちのみこと)が祀られており、入山許可をもらい崇拝することができる。

御蔭山 入口
国常立尊 遥拝所
国常立尊 磐座聖跡
国常立尊 磐座聖跡

道中には磐座が複数あり、地球と宇宙のエネルギーが常に行き来している。

磐座
春日社
建御雷之男神(たけみかづち)と天兒屋命(あめのこやねのみこと)を祀る

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天地開闢に現れた神世七代の最初の神様であり、特に天と地が分かれた時に現れた神様として知られており、「国・常・立」という言霊より国土の永遠の安定をもたらす神様です。山の上に祀られていることが多いため、国津神かなと思いがちですが、天津神の一柱です。

岩笛を気持ちよく吹いていると、どこからともなく、鳥が呼応するかのように一緒に鳴きはじめたため、鳥がどこにいるのか、辺りを見回してみましたが目視することができず、気配すら感じることはありませんでした。

こういった不思議な体験を通して思うことは、目で確認できなくても自分が神様や高次元と繋がろうとさえ思えば、「いつも、一緒にいますよ」というメッセージが返ってきます。こういったことを体現しながら、自分の知らない自分を見つけていきたいと思います。


私たちは高次である宇宙へつながればつながるほど、よりパワフルな引き寄せの法則を体現することができ、ひいては物事を動かすために必要なエネルギーを養います。そのエネルギーをつかみ取るためにも、中今(なかいま)を生きることです。中今とは過去を振り返らず、未来へ望みを託すこともなく、今に向き合い、今を全力で生きることです。高次へつながることは容易いことではありませんが、成し遂げた先には必ず、浄土があります。常に中心は私であり、あなたです。

今を大切にお過ごしください。

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