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[湯殿山神社 + 羽黒山 五重塔 + 出羽三山神社 三神合祭殿] さようなら、煩悩

人間には108の煩悩があると言われていますが、特に無意識に沸き上がる未練や執着心といった煩悩は、日々の生活を通して沸き上がってくるため、一度手放して終わりではなく、都度都度、その煩悩を手放すことをやっていきます。

例えば、未練は無くしてしまった後に湧き上がる欠乏の感情として、他にも、さみしい、恋しい、諦められない、さらには悔しいといったように、無くしたものへの感情が、後悔という塊として心と頭の中を占有します。

「後悔先に立たず」という諺の通り、起こった出来事を悔やんでも取り返しがつかない・変えられないことへの後悔は、自他へ向けた怒りにも変わります。そういった怒りも煩悩の一つであり、未練とともに、都度都度、手放していくことで魂は成長していきます。

そこで煩悩の手放し方ですが、これは私が学生の頃から夜寝る前にやっている儀式です。怒りや後悔の感情で夜が寝れない場合、まず自分の両手を頭の上に持ってきて、その怒りを固形化して、手で引っ張りだします。その固形物は大きいものが1つのケースもあれば、小さいものが複数のケースもあります。納得するまで固形物を頭の上から引っ張り出します。全ての固形物が抜き出せたら、複数の場合ひとまとめにしてから、その怒りの固形物を天に向かって、力強く放り投げてください。
「私には必要ないので、さようなら」と、つぶやき、お別れをします。
それだけです。

後悔の念は頭ではなく寧ろ、心に棲みついているため、心臓の前に両手を持ってきて、その後悔の念を心の中から引っ張りだします。私の場合、頭からは薄黄色の固形物体が出てきますが、心の中からはミミズのような白く細い紐状の物体がニョロニョロと出てきます。全ての白い紐状の物体を心から抜き出した後は、その紐は不要物として、天に向って放り投げるか、場合によっては不動明王の護摩火で燃やして浄化するイメージを持ちます。
「私には必要ないので、さようなら」と、つぶやき、お別れの儀式をします。
それだけです。


放り投げた煩悩の行先は、宇宙のブラックホールです。一度、ブラックホールに飲み込まれた物は、二度と戻ってくることはありません。
この儀式を、煩悩が出る度に行います。


もしこのやり方でも煩悩が抜けない場合は、残り香のように煩悩が心に残っていることが多く、その場合は不安の要素が強いです。不安は煽り運転と同じで、他人からの煽りを受けて、さらに自分を煽っているため、その根本原因がどこにあるのかを見極めてから、その根本にあるものを手放すと良いです。


「山より大きな猪はいない、海より大きな鯨はいない 」という諺のように、今、目の前で、起こっていることは必ず解決する、つまり、乗り越えられない壁はありません。必ず、終止符は打てます。


先述のように一旦手放した煩悩は、何度も何度も沸き上がってきます。その都度、身心から取り出して、天の果てにあるブラックホールに向かって放り投げるか、不動明王のご加護のもと、護摩浄化をしてください。

そして「案ずるより産むが易し」という言霊が沸き上がってこれば、御霊が研磨され、その煩悩に苛まれることが減り、次の次元へ上昇している証です。



湯殿山 湯殿山神社(ゆどのさんじんじゃ) ー 山形県鶴岡市田麦俣

月山から連なる湯殿山は出羽三山の一つとして、古来より山岳信仰の霊地であり、俗世間から切り離された神域に湯殿山神社は立つ。本殿はなく、また御神体についても「語るなかれ、聞くなかれ」と湯殿山での修行内容を他者へ語らないことが掟である。御祭神には、大山祇神、大己貴命、少彦名命を祀る。

湯殿山神社

羽黒山を現世、月山を前世、湯殿山を来世と見立てて出羽三山を巡り、生きながらにして「生まれ変わりの旅」ができると、江戸時代より出羽三山を巡る人々が後を絶たない。

湯殿山神社 入口
湯殿山神社 入口

「西のお伊勢参り、東の奥参り」と、西の伊勢神宮に祀られる天照大神と東の出羽三山の月山に祀られる月読命は太陽と月の姉弟神として互いに強い絆で結ばれ、また天照の陽と月読の陰は対を成すものであることより、両方を参拝する風習が今なお続いている。

湯殿山を目指す修験者

593年に出羽三山を開山して以来、山や木や岩などの自然物に宿る神々を拝みながら、山中をかけめぐる厳しい山岳修行の地であったが、現在では一般参拝もできるようになり、御祓いを受けた後、裸足で御神体と対峙する。


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「来世という聖なる空間を土足で汚すことをしてはならない、来世という未知なる空間には俗世の穢れを持ち込んではいけない」というメッセージを湯殿山の霊魂より受け取りました。
そして「来世へ向かうには、現世にあるものを全て手放すこと」とも聞こえてきました。

湯殿山

インドの寺院に入る際にも裸足になる決まりがあり、広前を汚さないためと理解をしていましたが、もしかすると俗世の穢れを神域に持ち込まないようにするための儀式であることを今さらながら、気づかされました。

剣神社
湯殿山神社 来世への門

湯殿山の御神体と対峙しながら、仮に今日、私が来世へ旅立つとなったら、手放せないものはないと、現世への未練や執着がなく、今を最大限に生きていることを確信しました。




羽黒山 五重塔(ごじゅうのとう) ー  山形県鶴岡市羽黒町

羽黒山への参道には高さ約30mの国宝五重塔があり、平安期に平将門氏が創建したことを起源に、現在の塔は室町時代に再建されたと言われている。

五重塔

東北地方では最古の仏塔と言われており、明治以前は神仏習合として羽黒山には多くの寺院や僧坊があったが、神仏分離となった後はほとんどの仏教施設が取り壊され、唯一残されたのが五重塔である。

出羽三山神社 入口

出羽三山への入口となる随神門から継子坂を下ると祓川があり、神域へ入る前の禊を行い、穢れを祓う。参詣道には山の神をはじめ、水の神や五十猛神社等々、この地にゆかりのある神々が祀られている。

継子坂
羽黒山 五重塔への参詣道
天神社
豊玉姫神社
羽黒山 五重塔への参詣道
羽黒山への参詣道

五重塔は素木造り(しらきづくり)で、屋根は木の薄板を幾重にも重ねて施工する柿葺(こけらぶき)という手法で造られている。

五重塔
五重塔
五重塔
五重塔
天拝石
天を祀ったとされる磐座


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五重塔そのものが1本の光の柱として天に向かってまっすぐにのびており、地球のエネルギーと宇宙のエネルギーが五重塔を通して行ったり来たりと、循環しているようです。

五重塔

五重塔には五輪塔と同じエネルギーが宿されており、それは縄文土器と同じ宇宙観として、地・水・火・風・空の五大要素が一つも欠けることなくバランスされており、また現世・前世・来世のすべての時空が宇宙の中で一つにつながっているとのメッセージを受け取りました。

五輪塔の周囲には、その光の柱に引き寄せられた精霊さんたちが集まってきており、石像や石仏、石塔にはそういった精霊さんの御魂が宿っていました。
その精霊さんたちには、四国八十八ヶ所のお遍路さんを接待する方々と同じエネルギーが流れており、参詣する私たちをあたたかく見守ってくださっています。五輪塔を訪れる際には是非、精霊さんたちに一言、ご挨拶をしていただけると幸いです。




出羽三山神社 三神合祭殿(でばさんざんじんじゃ さんじんごうさいでん) ー 山形県鶴岡市羽黒町手向字手向

飛鳥時代、蘇我馬子らにより暗殺されたとされる第32代 崇峻天皇の皇子 蜂子皇子(はちこのおうじ)が身を守るために東へ進む中、三本足の烏に導かれて羽黒山の羽黒権現の霊験を得て、その山頂に祠を創建したことが出羽三山の始まりとされ、同年に月山を開山、12年後に湯殿山を開山したとされる。

冬季は雪のため月山と湯殿山へ登拝ができないため、羽黒山 三神合祭殿に出羽三山の羽黒山、月山、湯殿山の三神を祀るに至る。

出羽三山神社 三神合祭殿 拝殿と本殿

三神合祭殿の内陣には、正面中央に月山神社の月読命、右に出羽神社の伊氏波神(いではのかみ:稲倉魂命)、左には湯殿山神社の大山祇命、大己貴命、少彦名命を祀る。

羽黒山、月山、湯殿山の扁額
邪気
持国天・増長天・広目天・多聞天と言われる四天王や仁王に踏みつけられている邪鬼は仏法を犯す邪神としてこらしめられている一方、正しい道に導こうという仏の心も表している
邪気
邪気

多くの人々の苦しみを背負い、世のため、人のために一生涯を投じた蜂子皇子は能除仙(のうじょせん)、能除大師(のうじょだいし)、能除太子(のうじょたいし)と呼ばれ、後世には修験道の開祖 役行者(えんのぎょうじゃ)をはじめ、弘法大師 空海や浄土宗の開祖 最澄が羽黒派古修験道を学んだことより、蜂子皇子は山岳修行の始祖と言える。

平和之塔
三本足の烏は神武を大和へ導いた八咫烏とも言われている
松例祭引縄
羽黒山で行われる松例祭の年越し神事で使用した縄を魔除けとして屋根下に飾る
鏡池(かがみいけ)
平安から江戸までに奉納された数百枚の羽黒鏡(はぐろきょう)と言われる銅鏡が池の中から発見されており、羽黒鏡を池に投げ入れて、願掛けをする羽黒山特有の信仰があったとされる
末社
左から大雷神社、健角身神社、稲荷神社、大山祗神社、白山神社、思兼神社、八坂神社



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3という数字が持つパワーは計り知れず、出羽三山をはじめ、3本足の八咫烏、剣・鏡・勾玉の三種の神器、キリスト教の父なる神、神の子イエスキリスト、そして聖霊の三位一体、仏教の柱となる仏・法・僧の三宝、更には3日後に復活したキリスト、ピラミッドの三角形、三柱鳥居等々、物事は1つから始まり、1の対として1とは異なる性質の2つ目が表れ、3つ目が現れることで無限の可能性が広がります。

また3は「み」として、満(みちる)や充(みちる)、或いは御稜威(みいつ)といったアナグラムとしても読み解けるため、3がもたらす言霊には宇宙の無限を表わす一方、安定や安寧という世の中の平穏さや、人々の心豊かさを追求しており、蜂子皇子はまさに弥勒の世界を出羽三山に具現化されたのかと、感動しました。この土地へ導かれたこと、また自分の足で訪れることができたことに感謝しました。




私たちは高次である宇宙へつながればつながるほど、よりパワフルな引き寄せの法則を体現することができ、ひいては物事を動かすために必要なエネルギーを養います。そのエネルギーをつかみ取るためにも、中今(なかいま)を生きることです。中今とは過去を振り返らず、未来へ望みを託すこともなく、今に向き合い、今を全力で生きることです。高次へつながることは容易いことではありませんが、成し遂げた先には必ず、浄土があります。常に中心は私であり、あなたです。

今を大切にお過ごしください。



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