[天津祝詞+祓詞+吉備津神社+信貴山朝護孫子寺] 言霊から変えていく
日本人にとっての神とは、ありとあらゆる万物に何かしらの魂が宿っており、その魂が神とつながっていると考えるためです。つまり、「苦しいことから助けてほしい」や、「願いを聞いてほしい」といった救済を祈ることが神道ではなく、むしろ自然界に存在するものをいただき、そのいただきものへ感謝の意を常に持ち続けることが惟神(かむながら・かんながら)の道です。
今回は天神地祇すべての神を崇め奉る言霊として奏上される「祝詞・祓詞」をご紹介したいと思います。
「日本は言霊の祐(たす)くる国」や「言霊の幸(さきは)ふ国」と万葉集に歌われているように、古来より言葉には不思議な魂や霊力が宿っていると考え、またその言葉は言霊(ことだま・ことたま)として天地や神々をも動かす力があると信じています。その神祇への言霊を祝詞、または天津祝詞(あまつのりと)として、祝福の言霊を発すれば幸福になり、逆に呪いの呪詛を発すれば不幸になるという考えのもと、神の御神徳を褒め称え、また御加護をいただくために祝詞を奏上します。
また祓詞(はらいことば・はらひことば)といって身を祓い、清めるための祝詞では、単純に汚れ(けがれ)を清めるだけではなく、言霊的にけがれ、すなわち気枯れ(けがれ)となっている生命体に新しい生命力を与える「張霊(はらひ)」の意味もこめられおり、その気枯れがあってこそ、新しい生命が生まれるという神秘が秘めているのが、伊邪那岐が黄泉の国から帰った後、気枯れに禊を行い、祓った後、生まれてきたのが皇大御神である天照大神、月読命、そして須佐之男命の三貴子(みはしらのうずのみこ)です。
そういった意味において祝詞を神へ奏上するとは、その発する人の魂が清らかであればあるほど、禊清められるとされ、逆に発する人の魂が濁っていれば祝詞を奏上することで気枯れに新しい生命体が宿り、やがては直霊(なほひ)へ生まれ変われるということです。ただし、いくら祝詞や祓詞を奏上してもその人の魂が濁ったままでは、曲霊(まがひ)のままであり、その魂は清らかな言霊にならず、曲津祝詞(まがつのりと)となって苦しみから救済されることはありません。
「あれ、私の魂が濁っているな・・・」「もやもやして重いな・・・」と心身が感じる折には天津祝詞を奏上して魂の音律を調節することができます。
ある時、吉備津神社の御釜神事をしていただいた際、正に私の魂はエゴで濁っていたため、釜が鳴らないというとても悲しい出来事を経験しました。この出来事を通して私は、神は私たちの魂にも存在しており、その魂が曲がって、濁っている場合には、手厳しい結果を与えてくださり、更に改心した者には惟神の道へ導いてくださるのだと確信しました。
2021年12月21日、ようやく冬至を迎えました。特に今年の冬至は2万6000年周期の眠りから私たちが目覚めるタイミングともいわれており、その目覚めを通して宇宙の光とつながる人と、闇とつながる人の道別れの分岐点とも言われています。
目覚めることを選んだ私たちは今後、ハイヤーセルフとのつながりを通して、さらに宇宙の光エネルギーを吸収しやすくなり、個々の波動も上がっていきます。この波動は5次元へ私たちを導いてくれるため、自他ともに存在するストレスやエネルギーヴァンパイヤーが消えていく状態となります。是非、皆さんもこの目覚めを意識して日々を過ごしてみてください。