小説『俺の赤いネックレスとあの人の命日』
この店には入ったことがある。店員さんの顔も覚えている。
「メンズってどの辺ですか?」
指差された硝子ケースを覗く。……やっぱりメンズは詰まらない。ネックレスならチェーンにチャームが一つぶら下がっているだけとか。ブレスレットなら丸い石が数珠みたいに連なっているのとか。
店員さんは男性たった一人だった。ドアが開いてショップに新鮮な空気が流れた。若いカップルの客が入って来て、店員さんはそちらに行ってしまう。
携帯の時間を見る。まだ大丈夫。……送られて来た住所は確かにこのショップだ。でも、ここにいるスタッフはこの人だけだ。一度表に出た。ショップは水槽みたいな硝子張りで、外から見ると、本物の水槽みたいで、中に動いている人が泳ぐ魚に見える。
こういう強い太陽を浴びて珊瑚礁が揺らいで、魚達を天敵から隠してあげる。海面に飛び散る太陽の下ではみんなハッピーだ。南国の海の底では生物達はどんな色でも、どんな形でも受け入れて貰える。
……水槽の両脇を覗いたけど、ドアや階段はない。硝子面に映る自分の姿。プラチナブロンドの縦ロール。あんまり人形みたいで、少し身体を動かしてみる。
カップルはまだ迷っている。会話の間に店員さんに素早く聞いた。彼はドアを指差した。壁と同じ水色だから、そんな所にドアがあるとは絶対に気が付かない。引き戸だからドアノブもない。その水色にもそこは海だと書いてあって、緊張しながら開けてみた。
水色のドアの向こうには、薄暗い大きな空間が広がっていた。珊瑚礁の太陽から泳ぎ出ると、暫く部屋の様子が分からない。カラコンとつけまつ毛の目で瞬きをたくさんする。その結果、カウチに人が座っているのが浮かんで見えた。どんな人なのかはまだ分からない。ボーっとしたグレーの塊に見える。もっと瞬きをしてみた。
男は薄茶のスーツを着ていた。顔は痩せて、少し猫背で、土に穴を掘って暮らす小動物みたいで、無理矢理地上に引き摺って行こうとすると、狂った様に泣き叫ぶ、そんな印象だった。この人に会った瞬間のことは、いつまでも忘れられなかった。
「こちらに面接に伺ったのですが……」
男は立ち上がる。
「社長、また忘れてるんだな」
男は社長に電話をする。
「悪いけど、出ないな……」
短い階段の上にいることに気付く。もう少しで落下しそうになる。誰がこんな危険な設計を。首の骨を折ったって可笑しくない。男が近付いて来る。階段の上に立っていると、スカートの中を覗かれそうだ。階段を下りるべきか迷う。男が上がって来るのかも知れない。
男は電話を置き、更にこちらへ近付いて、黒いミニスカートと白いニーソックスの間の生足をじろじろ見られる。階段の上に立ち尽くしていると、博物館の展示品になったような気になる。黒く塗られた木の箱に立たされて、硝子ケースを被せられる。札には、名前と出生地と推定死亡時が書いてある。
「君がそういう格好で毎日会社に来てくれるんだった俺は嬉しいな」
男は薄笑う。
「まあ、俺の個人的な願望だけど」
「……あの、いいですよ。僕、また改めて伺いますので」
「え、僕?」
「はい、僕です」
「男の子なの?」
「僕、男の子と女の子の半分半分なんです」
「身体もそうなの? あ、でもこんなこと聞いていいのかどうか……」
「いいですよ。もやもや悩ませるのも嫌ですし。僕の場合両方で、二万人に一人の割合だそうです」
「じゃあ、君の恋愛対象は? あ、でもこんなこと聞いていいのかどうか……
「夏は男の人を好きになることが多くて、冬は女の人を好きになることが多いです」
「へえ、季節なんだ……」
脇に抱えたポートフォリオに注目される。カウチに座るように指図されて、エナメルのプラットフォームシューズで階段を慎重に下りる。男は微かに身体が触るくらい近くに腰掛ける。そしてページを捲る度にミニスカートから出ている足を見られる。時々顔もじろっと見られる。触れている身体を離すと、もっと身体を押し付けて来る。
「社長は確かメンズのデザイナーを探しているって言ってたぞ」
「聞いています」
「じゃあなんでこんな所にクマが付いてるの?」
「クマさん可愛いし」
「それになんでこんな所に宇宙人がぶら下がっているの? ……やっぱり俺じゃあ分からないな」
男に肩を抱かれて階段を上る。このボディタッチはなんなの? 誰にでもこうなの? それとも……。
「純夜(じゅんや)、お前本当にそういうなりで面接に行ったの?」
「嘘つくのは嫌だし。でもあの時は今日よりスカートはちょっと長かった」
「お前、なんでハロウィンでもないのに蝙蝠の柄なんて着るの?」
お気に入りの蝙蝠柄のローウエストのワンピース。スカートの部分は高校生の制服みたいなプリーツになっている。蝙蝠達は牙のある口で笑いながら大いに飛び交っている。
「蝙蝠はゴスロリの基本だから」
ゴスロリとはゴシック期の怪奇的な美とロリータの少女趣味が混じり合ったファッションだ。色は黒か白。フリルやレースも得意。
玲門(れいもん)のファッションの基本はパラシュートと呼ばれるもの。トップもボトムもオーバーサイズで、あちらこちらから、なんの為に付いているのか分からない紐がぶらぶら下がって揺れている。玲門はスタイリストになる為に生まれて来たちゃらい男にしては胸板も厚く、腕にも筋肉がいっぱい付いていて、それを見せびらかすが如く夏でもないのに袖無しを着る。
純夜と玲門が単なる友人なのは玲門にいつも男がいるからだ。ファッションはちゃらい癖に、男は硬派が好きで、いつもボディビルダーみたいな奴と付き合っている。
大企業の宣伝部や映画制作者がクライアントで、玲門のセンスに頼り切っている広告代理店もあるくらいだ。それ程世の中のセンスを先取りしている。
玲門はいつも太陽の当たる道の真ん中を歩いている。純夜はいつも硝子の破片に映る一条の月に囚われている。
「それでそのセクハラ上司はどうなった?」
純夜はプラチナブロンドの先っちょの海水色の部分を指でくるくるする。
「相変わらず。この間、アトリエのストックルームで二人っきりになって、鍵まで掛けられた」
「どうしたらそんなことになるの?」
「俺が探し物をしにストックルームに入って、知らない内に後ろにいて、それで鍵を掛けられた」
水槽みたいなショップは表参道に面していて、水色の引き戸の向こうは天井の高い洋館になっている。アンティークの家具が並んでいる。本物だったら大した財産だ。螺旋階段の上に部屋がいくつもあって、そこがジュエリーのアトリエになっていてる。従業員は十人程だ。バイトを入れるともう少し。純夜はメンズの担当で、それは純夜しか男性がいないからだ。一応の男性だけど。
なんでかは謎だけど、純夜だけカウチの置いてある、いつもひんやりしているリビングの一角にある机を与えられている。純夜のなりはアンティークな洋館には良く似合う。天井に蝙蝠がたくさんぶら下がって揺れながら微笑まれてもきっと驚かない。
ジュエリーメーカーのビジネスの流れはこうだ。純夜達の創る一点物のジュエリーがサンプル室に展示される。アパレルメーカーが訪れて、サンプルの中からデザインを買い取り、自社ブランドの商品として量産をする。量産は純夜の会社で請け負うこともあるし、外部に発注することもある。
純夜のジュエリーは入社したての割に選ばれることが多い。しかしいつもレディースのブランドに使われる。女性のモデルが純夜のジュエリーを着けて、デパートの壁面を覆うような大きなポスターになったり、テレビのコマーシャルでアップになったりした。
純夜が面接時にショップにいたスタッフの育人(いくと)は、いつも純夜の創るものをしっかり見張っている。
「男がクマさんを着けて歩いていいのは三才までだから」
「でもクマさんが俺を呼んでいて……」
社長が口を出す。
「まあいいじゃないか、育人君」
「どうして社長はいつも純夜に甘いんですか? 僕は純夜に立派なメンズデザイナーになって欲しいだけです」
純夜のジュエリーがレディースに使われる度に、育人の機嫌が悪くなる。純夜はショップで売る為のメンズジュエリーも担当しているけど、やっぱり女の子が買って行く。すると育人の機嫌がまた悪くなる。
玲門は有名メンズファッション誌のスタイリングもやっていて、育人のいるショップからも貸し出しが多い。ファッション界で貸し出しと呼ばれるのは、雑誌や広告に貸し出すこと。貸し出しの料金を払って、撮影が終わると商品が返却される。思いがけず大きな収入源となっている。
ショップの名前が雑誌に出るから、玲門のお陰で売り上げも伸びる。そもそも純夜を会社に紹介したのも玲門だ。
「メンズのファッション誌をやっていると、ジュエリーは毎号同じ様になってしまうから、純夜の挑戦は悪くないですよ」
育人はそうは思っていないらしい。玲門に純夜の最新作を見せる。宇宙人の周りにラインストーンの星がいっぱい浮いている。大宇宙を創造した傑作だと純夜は思っている。育人の意見はこうだ。
「男が宇宙人を着けて歩いていいのは五才までですよ」
店の客が宇宙人シリーズを見て可愛いと言って買って行く。客は女性のグループだった。また育人の機嫌が悪くなる。溜息の長さと回数が増して行く。玲門は純夜の味方だ。
「こんなによく売れるって凄いことですよ」
「女性にね……」
純夜がこっそりショップから逃げて家に帰ろうとする。育人の収まらない怒りのオーラを感じる。純夜は育人の背後を足音を立てずに歩く。でも直ぐに気付かれて睨まれる。育人はきっと背中にも目がある。
玲門に腕をがしっと掴まれて、純夜は玲門と一緒に夕暮れの街へ走って逃げる。
「純夜、もう宇宙人はよした方がいいぞ!」
向こうから来る知らない旅行者や買い物客が二人を慌てて避ける。二人は人々に何度もぶつかりそうになる。
「でもさ! 宇宙人ってなんであんなに可愛いんだろう?」
「目がでかいからだろ!」
煌めく大きな水槽がすっかり見えなくなるまで二人は走った。息が切れたら、水槽の中じゃない本物の空気を思いっ切り吸った。
優我(ゆうが)というのがセクハラ上司の名前だ。純夜がストックルームに入った時、いつの間にか優我が後ろにいた。その部屋は中から鍵が掛かるから、外からは誰も入って来られない。純夜の肩を後ろから強く抱き締める。きっともう止められない。追い詰められたように。
「こんなのセクハラだよな……」
純夜は分かっているんだな、と驚く。優我の息が荒くて、欲望を必死に抑えている様子がある。
「純夜、君に見せたいものがある。この会社を作る前、社長と二人でヨーロッパを回ったんだ。ジュエリーの工房を訪ねて、デッドストックになっていたヴィクトリア朝前後のビーズを見付けては日本へ送った」
優我は古風な金庫のダイヤルを回す。見たことのないビーズ。何色って聞かれても答えられない様な色の破片が硝子の中で浮いている。中でも純夜がショックを受けたのは、赤い硝子のビーズ。血の赤。きっと血の色を再現したかった。なぜかネガティブな色には見えなかった。
「聞いたところだと、ヴィクトリア朝以降、技術が失われてしまって、もうこんな鮮やかな赤は作れない」
手作りだから、微妙に形も違う。色の入り方も違う。この赤でジュエリーが創れたら。純夜は木の床に座り込んで赤いビーズを並べてみた。
「社長も俺も、百年以上眠っていたビーズを使えるのは君しかいないと信じている」
優我は純夜を床に倒して、欲望を容赦なくぶつけてきた。二人の身体が棚を揺らして、赤いビーズがぱらぱら落ちて来た。なんて綺麗なんだろう。アンティークのオレンジ色のライトに溶けて行く。純夜の意識は身体を離れて、ビーズを目で追った。
純夜のカラコンとつけまつ毛の目から涙が零れる。それでも優我は行為を止めない。終わった後も純夜の涙は止まらない。優我は乱れた自分の服を直した。
「泣くな、これじゃあ俺が君のこと犯しているみたいじゃないか」
「そうじゃないんですか?」
「お前の身体が悪いんだ。俺を誘っているんだ」
優我が鍵を開けて出て行く音が聞こえた。純夜は涙と一緒に床に散らばった、血の赤のビーズを一粒一粒拾った。
もう大丈夫になるまでそこにいて、自分では息も普通で、誰が見ても泣いた後じゃないと思ったから、いつもの様にショップを通って帰ろうと思った。純夜は今日ショップの為に創ったネックレスをこっそりカウンターに置いた。
「純夜」
育人に声を掛けられる。純夜には背を向けているのに。
「嫌だったらちゃんと嫌だって言うんだぞ」
やっぱり育人の背中には目が付いている。
「なに、なんのこと?」
「……優我のこと」
育人は純夜の後ろに回ってスカートの埃を払ってくれる。プラチナブロンドの巻き毛も払ってくれる。
「お前、優我のことが好きなのか?」
「どっちかって言うと嫌いだけど」
「その辺のところをはっきりさせろ」
次の日、社長に呼ばれた。
「ヴィクトリアのビーズは貴重なものだから、作品になっても絶対売りはしない。貸し出しのみ」
玲門がビーズのことを知って、早速幾つか借りてくれた。何色って聞かれても答えられない。敢えて表現すれば、微かな緑色が檸檬色に絡まった様な色。
玲門が借りて行ったネックレス。ヴィクトリア朝のビーズ第一弾だ。写真を見せて貰った。大手のヘアサロンのポスターに使われ、純夜のネックレスがなんと頭に乗っていた。花の王冠みたいに。中世的なモデルさんで、ふわふわの長い巻き毛で、よく似合っていた。
純夜は写真を長い間見詰めていた。ビーズの色が髪の色と混じり合って、自分の創ったネックレスが別の世界のものに見える。玲門のアイディアが冴えている。玲門とのコラボレーションはいつも刺激的だった。
優我とのこと、身体ははっきり覚えている。あのことの後、いつも純夜に注がれるねっとりした視線がない。アトリエで優我と二人きりになった。どうしても終わらせたい仕事があったから不味いな、とは思ったけど二人でいた。優我に声を掛けられた。
「純夜、俺にちょっと付き合って」
突然誘われて、純夜は戸惑った。なんて言ったらいいのか分からない。純夜はすっかり女の子になって下を向く。それが男を誘うみたいでヤバいな、と思う。育人は嫌だったら断れって言っていたけど。純夜は自分の心に聞いてみたけど、優我に一抹の興味は感じる。不吉な興味……。悪いことを悪いって知っていて引き摺られる、みたいな。
優我の車に乗せられた。赤い高級外車のスポーツカーだった。不味いことに、今日のスカートはいつもより短い。純夜はスカートを引っ張って膝を隠す。車の中で優我は黙っているけれども、信号でとまった時だけ、純夜の顔を見た。
マンションに車を置いた。外から見ただけでも贅沢なマンション。有名な建築家が創ったみたいな凝った形。車の多い表通りまで黙って歩いた。優我はタクシーに手を上げる。暮れかけた街に純夜の心は不安に沈んで行く。だったらなぜこの人に付いて行くんだろう。
新宿西口のビル群を眺める。タクシーはライトの眩しいホテルの前でとまった。大袈裟なユニフォームを着たドアマンに迎えられる。行き交う人々は誰も着飾っている。ここにいる人達は、なぜここにいるんだろう、と考える。純夜だって、自分だって、なぜここにいるのか説明できない。
優我は立ち止まることなくエレベーターに乗る。四十五階を押す。その時、彼は純夜のことを、なにかを決心した人みたいにしっかり見た。高速エレベーターに引き摺り上げられる。優我と身体で触れ合ったことを思い出す。
四十五階はバーだった。真っ白なエプロンを着けた若者が跪く。優我は聞いたことの無い外国製のビールを二人分オーダーした。クリームみたいな細かい泡のビール。色も淡くて綺麗だ。純夜はアーティストの気持ちでビールを長い間見詰めた。優我がいつまでもビールに口を付けない純夜を笑う。
アトリエを出て、優我の車に乗ってから、ちゃんとした会話はこれが初めてだった。優我は自分のグラスを純夜のにぶつける。
「こないだ、泣かせちゃったから……」
純夜は彼が罪悪感を持っていると知ってちょっと驚く。
優我はこんなに高そうなバーにいても振る舞いが堂々としているし、とても自然だ。スタッフの親し気な様子からも、優我は常連だということが知れる。お坊ちゃんなんだな。純夜はまだ飲む前からビールに酔ったみたいな憧れに揺れた。
「あの時泣いたのは、赤いビーズが零れたのがあんまり綺麗で……」
優我には反応が無い。
優我の口数が減っていく。二人は窓際の席にいて、遂に優我は窓の外を向いたまま完全に沈黙した。純夜はこの奇妙な人をちゃんと見た。すると純夜はこの人をしっかり見たことが無いのに気が付いた。
痩せて、顔色が悪くて、初めて会った時のことを思い出す。ポートフォリオを見てくれて、肩を抱かれて別れた。土を掘って暗闇で生きている小動物。外見からはネガティブな印象しかない。
「純夜、俺と付き合わないか?」
無理矢理声を押し出す様にして優我が言った。それからこう言った。
「俺のこと嫌いなのよく知っているけど」
純夜はよく知っているなと驚く。
「……俺にチャンスをくれないか?」
優我はもう一度跪いた若者に渡された白い紙にサインをすると、純夜をエスコートしてエレベーターに乗る。直ぐ下の階で降ろされる。カーペットの廊下を歩く優我に抵抗できない力を感じる。
優我は部屋に入ると、これだけを言う。
「毎月この日には俺はこの部屋に泊まるんだ」
その後、完全に言葉が失われた。それに反して行いは凄絶だった。純夜の服は破られ、首に何度も噛み付かれた。痛い、と叫んでも止めてくれない。首を絞められて気を失う。意識が戻ると、優我が純夜の心臓の音を確かめていた。股を広げられて、純夜の二万人に一人の身体を動画に撮られた。
朝になって、優我はタクシーの運転手に金をやり、バスローブに包れた純夜を押し込めた。
会社を無断で休んで、三日目に育人が純夜のアパートに来てくれた。
「傷害で被害届を出すんなら、俺が一緒に警察に行ってやる」
「いい、あの人はきっと精神を病んでいる。もしそうなら俺が助けてやりたいと思う」
「お前、馬鹿か? ここまでやられているのに」
いつも純夜の怖いお兄さんだった育人。本気で上司と戦ってくれると言われた。純夜は会社での育人の立場が悪くなるのが心配だった。
次の日、首に巻いたスカーフで大きな痣を隠し、出勤した。社長に呼ばれる。
「優我が入院していて、これから一緒に見舞いに行ってくれないか?」
社長の車はシルバーの高級外車のセダンだった。純夜の目は終始虚ろだった。
「優我は俺のこと、なにか言っていますか?」
「可愛いって、好きだって……。あいつ自殺未遂をして、薬は直ぐ吐き出して大丈夫なんだけど」
自殺未遂。重い言葉。社長は迷路みたいな病院で一度も迷わずに精神科の入院病棟に着いた。病室に入る時、純夜は社長の陰に隠れた。優我は病室に一人でいて、身体の重み全部でベッドに沈んでいた。社長の顔を見て優我が言った。
「兄さん……」
純夜が社長の後ろから出る。優我は緩く微笑んだ。
「……誰かと思った」
彼の微笑みが、純夜に会って嬉しいからだったらいいと思った。純夜の目から自然に涙が出た。顔色が悪いのはいつものことだけど、今日はもっと悪い。寒そうに見えた。
「どうして薬なんてたくさん飲んだの?」
「理由はね、ないんだよ」
純夜から目を逸らした。寂しそうに見えた。優我の手を握った。助けてやりたいというのは本気だった。
「優我、俺悪いことしたんだよね? 優我にちゃんと気持ちを言わないで」
優我はそれを否定して、それからは言葉が無かった。
帰りの車で優我に付いて聞いた。
「新宿のホテルだろう? あいつはいつも月命日にあそこへ行くんだ……」
週末で街は人がいっぱいだった。こんなに立派な車に乗っていて、人に車の中を見られているのを感じる。社長が続ける。
「毎月二十八日に……。俳優がホテルの屋上から飛び降りたんだ。もう四十年も前だぞ」
純夜は俳優のことも、事件のことも調べた。ずっと前に死んだ俳優になぜ取り憑かれるんだろう。優我が心配だった。俳優は警備員が止めるのも聞かず、四十七階から仰向けに飛んだ。プールサイドに落ちた時、綺麗な顔はそのままだった。その時、彼はまだ三十一才だった。
育人にも優我のことを聞いた。社長の風我(ふうが)と優我は、代々青山界隈の地主で、本当は会社なんてやらなくてもいいのに、ステイタスの為にやっている。会社は金持ちの道楽以上の利益はあるし、知名度もある。二人が共通してジュエリーが好きだということもあった。風我は優我が仕事をしている方が気が紛れるだろうと、仕事を続けさせている。
病院にいる優我にメールを送った。元気になるような言葉を添えた。クマさんの絵文字を並べた。
純夜は技術の失われた、二度と創ることのできない赤いビーズで、ネックレスを創り始めた。一つ一つ形も色の入り方も違う硝子のビーズ。純夜は赤い光の出る方向を考えて、完璧に理屈に合った創り方をした。複雑なデザインで、作品はなかなか進まない。
その頃、純夜は何日も食べなかったり、家に仕事を持ち帰って、寝ずに作品を創ったり、自分を痛め付ける様な生活を送った。
玲門に言われた。
「俺、こないだニューヨークに行っただろ? 映画の仕事で。その時に自殺したばかりの画家の展覧会を観たけど、お前はその画家の死ぬ直前の表情をしている。作品も似ている」
純夜は長い間彼のスタイルだったゴスロリも止めて、穴の開いた古いTシャツに、穴の開いたジーンズを穿くようになった。メイクも無しで、可愛い女の子から可愛い男の子になった。
なんとなく不幸を味わいたくて、優我を病院に尋ねた。病室は間違えていないのに、優我はいなかった。受付へ向かった。そこに後ろから見ても絶対美人と分かるような女性がいる。品のいい水色のスーツのスカートから出た足は、バックシームのストッキングで覆われている。マリリン・モンローやグレース・ケリーみたいな、どうやったらこんなウェーブになるの、というヘアスタイルをしている。
「夫が直ぐいなくなっちゃって、名前は優秀の優と我思うの我」
純夜の狂った頭が凍り付く。結婚していたの? 誰も教えてくれなかった。心臓が凍り付いた。嫉妬と呼ぶには強烈過ぎた。足音を立てないようにして、女の直ぐ後を歩く。中庭に入って行く。
ベンチに死人の顔をした優我がいた。女が隣に座ると、優我は彼女の肩に頭を乗せで、くびれた腰に手を回す。仲が良さそう。不幸を求めていた純夜は、傷付くのが気持ちいいと感じた。暫らく二人を見ていて、もっと傷付こうと思って二人に近付いた。そしてもっともっと傷付きたくてもっと近付いた。
奥さんが先に純夜に気付いた。
「優我のお友達?」
「僕は会社で優我にセクハラをされていて、新宿のホテルで暴行されて、ビデオに撮られました」
優我は聞いていないというより聞こえていない様子だった。奥さんは驚いて胸を押さえる様な仕草をし、優我をそこへ残すと、純夜と一緒に人のいなくなった夕暮れの待合室に座った。奥さんからは花の匂いがする。こんなにいい奥さんがいたのにどうして死を追うんだろう?
「私も至らなくて、去年家を出てしまって。今回は夫の面倒を見るけど、この次は分からない……」
もしかして君の助けが必要になったら連絡するからと言われ、彼女の暖かい柔らかい両手が純夜の両手を包んだ。
「あの人、このままだと死んでしまう」
奥さんの本気さに純夜は怖くなった。
別れ際に彼女は言った。
「あの人はいつも死に憧れている。そして若い男性に恋をしている」
その後、優我は退院し、出勤もしない彼とは接点が無くなっていた。赤いビーズのネックレスをどうしても完成させることができない。他の色のアンティークビーズは完成されて、貸し出しもよくされていた。クライアントに買取を希望されても、やはり社長は手放そうとしなかった。
純夜は規則正しい生活を送り、時間通りに出社退社をし、着るものは穴の無い特徴もない定番の男の子の服になった。ポロシャツにチノパン。純夜のジュエリーを借りに来た玲門に言われた。
「このお前のネックレスだけど……」
純夜の最新作で、パステルカラーが楽しく混じり合ったネックレスだった。
「これに狂気を感じる。あっちの世界を表現している」
「なんで? こんなに明るくて正気なものはないのに」
そのネックレスは透明さに浮かんだ儚い花弁のようなイメージを表現していた。パステルの色達は淡くて、これって何色? って聞かれても答えられない様な色達だった。それはヴィクトリア朝のビーズだから実現できた。パステルのビーズの上から透明なビーズを重ねて、それを着けて動く度にパステルが色の光線を出す。
一つの色のことを考えていると、次に来る色がそれを追い越して行く。だから余程速く手を動かさないと、どんどん追い抜かされる。
「お前に狂気を感じる。気を付けろ。お前はまだあの男を追っているんだろう?」
「そんなことない!」
「お前の顔に、助けて、って書いてある!」
玲門は育人に純夜のことをよく見張っていてくれ、と言い残して忙しく去って行った。今度は育人の尋問が始まる。
「お前、まだあいつのこと好きなんじゃないか? あんなことをされたのに」
「奥さんのいる人と付き合おうとは思わない」
それは完全な嘘だった。純夜は優我にとって自分が負の部分、死の部分なんじゃないか、と考える。自分が近付かない方がいいのではないか。見放す訳でもない、冷たくしたい訳でもない。そう考えながらも純夜は優我の憧れる、ビルの屋上から飛び降りた俳優のことをしつこく思い出していた。
純夜はなぜ玲門に助けてって言って縋らなかったのか、と後悔した。あの厚い胸に縋って泣けたらな。玲門は純夜にとって太陽だった。優我とは正反対の。
育人に忠告された。じっと目を覗かれて。
「なんでも決める前に僕に相談しろ」
そうしたいけど、その時になったらきっと忘れてしまう。いつも育人にだけは本心で相談することが多かったけれども、この頃はそれもなくなって、だから育人も純夜の馬鹿馬鹿しいメロドラマみたいに狂おしい優我への思いには気付いていなかった。
……純夜は狂った頭で、あることを思い付く。
純夜は安いけど好みに合った水色のスーツを見付けた。ゴスロリの女の子から男の格好になっても、髪だけは長かった。それもばっさり男の子の普通くらいまで切り、ブロンドの髪を黒く染めた。
自分で創った首に痛い程巻き付くチョーカーを着けた。あの時と同じ窓際の席に座った。あの時は会社が終わって直ぐくらいだった。純夜は六時からそこにいた。時間と共にネオンも変化する。消えるものや新しく点くものがある。
優我がオーダーした外国のビールのティファニーブルーのラベルを覚えていたから、それを頼んだ。何時間もそこにいたら、親切なスタッフが気を使って何度も話し掛けて来る。純夜は次第にどうでもよくなって、僕は大丈夫です、と彼の顔も見ないで強く言ってしまった。それからは彼は遠くから純夜を見ているだけだった。
その頃は、クレージーなことだけど、どんなジュエリーも、全て優我に捧げる為に創っていた。純夜はもしこの先、優我無しで生きて行くとして、なにを心の支えに生きて行くだろうと考えた。暫らく考えて、仕事のところで、きっとアーティストとしてなら生きて行ける気がした。
九時近くになった。狂った頭で身動きもせずにいる純夜に、四十くらいの男が来て向かいの椅子に勝手に座った。どんなに世間に疎い純夜でも、それがどんな種類の男かは直ぐに理解できた。何処にも隙のない身体。剃刀みたいに光る目。
「飲み物を買ってあげる。なにがいい?」
わざとみたいに低い声。その瞬間、純夜の後ろから声がした。
「純夜、待たせてご免」
まるで本当に待ち合わせをしていたみたいに自然だった。怖い男は優我が現われると、バーの人込みに消えた。
久し振りに見るこの人には、やっぱり魅力を感じる。それが暗い死の魅力だとしても。高級そうなスーツを着こなし、病気で休んでいるうち髪が伸びていた。この人って巻き毛だったんだな、可愛いな、と思った。
純夜は自覚した。優我のことを一日中、毎日考えていた。姿を思い出していた。純夜に向けられた言葉や、身体の繋がりも、狂った頭で一日中、毎日考えていた。
「待ち伏せしているつもりじゃなかったけど」
優我は男の子になった純夜に微笑んだ。
「……俺はね、優我のことが好き」
そんなつもりじゃなかったけど、思いっ切り思い詰めた様な口調で言ってしまった。本当のことだけど、一日中優我のことを考えていたみたいに言ってしまった。
純夜は彼をよく見て、これだけ見たら後は自分だけで生きて行ける様に、しっかり見ようとした。そんな訳ないのに彼の体温まで感じて、ああ、これでもう大丈夫だと思って、席を立った。早口で言った。
「優我のこと、一目見たかっただけだから……」
優我は席を立たずに、素早く腕を伸ばして純夜を元の席に座らせた。
「俺のことは死んだと思ってくれ」
「死んだと思ってみるけど、時間は掛かると思う……」
純夜が冷たくしたスタッフが来た。純夜はさっきはご免なさいをする。待ち合わせの方、来てよかったですね、と優しく言われる。
優我のオーダーの仕方はスマートで、お坊ちゃんオーラに満ちている。馬鹿みたいだけどこの人は素敵だなと思う。純夜は迷ったけど、やはり聞いてしまう。
「優我はこれからもずっとここへ来るの?」
「俳優が俺と同じ病気だったと知って、それで興味を持って。いつかあんな風に死ねるんじゃないかって」
「あんなに派手に死んだらホテルも迷惑だよ」
優我の何処かの壺に嵌まって、彼は暫く笑っていて、純夜は笑ったところを見られてよかったと安心する。
「純夜、今日は全然泣かないんだな」
「もうね、優我のことではたくさん泣いたから……。俺が側にいたら生きる理由にならない?」
優我はスタッフが持って来た紙にサインをする。やっぱり今夜も部屋を取っているんだな。
純夜は俳優のことや事件のことを調べたから、病気のことも知っていた。治る病気ではない。双極性障害。
エレベーターに乗って、直ぐ下で降りる。優我は放心した様にスーツも脱がずに顔を覆ってベッドに座っている。純夜は優我に対する狂った愛情と、さっきまで知らなかった純夜のアーティストとしての大事な夢の部分を比較してみた。
優我をベッドの上に押し倒す。こう言われる。
「純夜、俺に少し時間をくれないか?」
「駄目、時間は上げない。時間を上げると優我は何処かへ行ってしまう」
優我は窓に近付くと、遥か地上を覗く。きっと自分がとうとうプールサイドへ飛んだ時のことを夢想している。純夜は彼の隣に立つ。淡い檸檬色のネオンがプールを囲んでいる。この人はどうして、いつまでも、ずっと昔に亡くなった人をこんなに。
この地上七階にあるプールが俳優の墓標だ。毎月ここへ来るのは優我の儀式だ。優我は取り憑かれた様に、プールサイドを囲んだ檸檬色のネオンを見詰める。人気俳優の非現実的な人生と檸檬色の現実が悲しく交差する。墓標の力はとても強い。純夜は二人を簡単に引き離すことができないと悟る。
優我は本当に俳優が憑依した様で、完全に喋らなくなって、憑かれた様に窓の外を見て、なぜか時計ばかり気にする。
純夜は部屋のミニバーを開けて、ミニチュアの瓶に入った可愛いお酒を飲んで、飲んでしまったらそれを机に並べた。その結果、ウォッカが一番好きだと気が付いた。酔った声でルームサービスを呼んでウォッカを頼む。氷や檸檬やソーダを持って来てくれたけど、純夜はボトルだけ受け取って、グラスも使わず室温で飲んだ。
どんなに飲んでも物足りない。この部屋のことも、飛び降りた俳優のことも、その人に取り憑かれた優我のことも、全然忘れられない。
純夜がふらついてベッドに倒れた。何時になっても、どんなに飲んでも、頭が冴えて眠れない。ウォッカをボトルから喉に流し込む。ウォッカとは喉を傷める為に飲むもの、ということを純夜は知った。飲んではトイレに駆け込んで吐くのを繰り返し、優我はやっと気付く。
「これ全部飲んだの?」
優我は純夜がミニボトルが可愛いから机に並べて遊んでいるんだと思っていたらしい。自分はそういうことをしそうだけど、そこまで子供じゃないと純夜は憤る。
最初に純夜の飲酒に気付いたのは玲門だった。その夜二人がいたのは、よく純夜が友達と行くようなファッション関係のゲイバーではなく、ボディビルダーが多い超硬派なゲイバーだった。
「純夜、俺、前のと別れたところで俺のことを狙っているのばかりだから気を付けろ」
「凄い自信」
「マジだから」
玲門がトイレに立ったら、さっそく現れた。プロレスラーみたいな大きな身体。服の上から見ても圧倒されそうになる。純夜の顔を無礼に覗き込んで、お前は何様のつもりだ、と意地悪を言われる。玲門が帰って来たので離れて行った。今度は純夜がトイレに行く。早速男三人に囲まれる。最初の男に言われる。
「お前みたいなテディベアは玲門には似合わないぜ」
二人目の男に胸を押される。純夜はよろよろよろける。三人目が一番ボディビルダーみたいで、純夜はそいつに軽く持ち上げられて、トイレの壁にぶつけられる。純夜はテディベアと呼ばれて笑いが止まらない。最初の男に、こいつは狂ってるぜ、と笑われる。玲門の所に戻る。
「俺みたいなテディベアは玲門には似合わないって」
「どの奴に言われた?」
玲門はマジで怒っていた。
「今こっちを見ている背の高い筋肉いっぱいの奴」
あいつだったら俺が別れたばっかの奴だ、と言いながら、玲門はそいつに向かって行く。純夜は止める。
「いい、俺、テディベアで。テディベア可愛いし」
酒を飲んでいたら、玲門の周りの馬鹿馬鹿しいことはどうでもよくなった。純夜はいつもそうするように、ウォッカをショットグラスで飲んでいた。
「なんの為にそんなに飲むんだ?」
背の高い玲門に、ショットグラスが純夜の届かない宙に上げられる。純夜は返してくれと手を伸ばす。
「あんまり飲むと、なかなか酔わない身体になるんだよ」
純夜は構わずウォッカをショットで頼む。玲門に取り上げられる。純夜は飲めないんだったらここにいてもしょうがないと思い、バーを出て駅へ向かう。玲門が付いて来る。途中に酒屋があったから、丁度いいと思ってウォッカの瓶を手に取る。また玲門が取り上げる。
「お前、まだあのセクハラ上司が好きなのか?」
「ううん、俺もう諦めちゃった。一緒に生きて行こうと思ったけど、あっちにその気は無いし。綺麗な奥さんがいたのに別れちゃった」
純夜は玲門が取り上げたウォッカのボトルに手を伸ばす。
「これだけ飲むと丁度優我の立場くらいに立てるから」
「なにを言ってる?」
「死に対する憧憬」
玲門は純夜からボトルを取り返す。
「お前、死にたいのか?」
「死ぬんなら優我と心中する」
「心中なんて今時流行らないぞ」
「別にトレンディーに生きようとしてないし」
「俺はお前に死んで欲しくないぞ。話し合おう」
「なにを話し合うの?」
「それだな、お前の地獄。ニューヨークで見た画家と同じ」
ここで玲門の胸に縋って泣けたらな、と思ったけど、毎日馬鹿みたいに飲み過ぎて、もう涙も出て来ない。
「俺の所へ来れば俺が救ってやる」
もうどうでもいいし、と思って付いて行く。玲門とはずっと友達だから、なんだか笑えてくる。彼のマンションには仕事の道具、主に信じられない量の服が見事に整頓されている。男臭い厚い胸に抱かれる。やっぱり笑えてくる。
玲門は純夜の面倒を見て、本物の母鳥の様に食事までスプーンで口に入れてくれる勢いだ。だから玲門は男に人気がある。
次の日、水槽みたいなショップを通って水色の引き戸を開けようとした瞬間、育人に止められた。
「病気だって言ってやるから今日は家に帰れ」
純夜はよろけてショーケースに手を突く。
「こんなに酒臭くて、首になったらどうする? 言ってただろ、本物のヴィクトリア朝のビーズが使えるうちは頑張りたいって」
純夜は狂った頭で考える。あの赤いビーズ、あのネックレスは。なかなかできない。完成させる為には全神経をナイフの様に集中する必要がある。
純夜のクリエイティビティは、アルコール度五十パーセントの透明な液体に囚われていた。脳がアルコールの中に浮いているってこんな感じだな、と純夜は毎日何度も考えた。
赤いネックレスが出来上がった。ネックレスは卵から孵ったばかりの小鳥みたいに辺りを眺めた。有名デザイナーのファッションショーに使われることになった。ショーが終わるとアシスタントデザイナーが飛んで来た。ネックレスが紛失してどうしても見付からない。純夜が聞いた。
「どのネックレスですか?」
あの赤いネックレス。純夜は喪失感を覚えた。貴重な赤いビーズは殆ど使い切ったから、もう手元には残っていない。唯一の慰めは、美術雑誌に掲載された時、プロのフォトグラファーがあらゆる角度から撮っていてくれたこと。
ファッションデザイナーは、ネックレスの貴重さを理解せず、数万円の保証金を提示してきた。値段も付けられない、保険にも入ってなかった。風我は盗難届を出して相手を契約不履行で訴える、と本気だ。普段温厚な人が怒ると怖いよな、と育人は驚いている。……純夜はただ涙目。
数日後、いつものようにショップを通ってアトリエに入ろうとしたら、目の覚める様な高身長のイケメンがいた。育人に紹介される。
「この方は、あのファッションショーの時、お前の赤いネックレスを着けて歩いたモデルさんだよ」
礼儀正しい青年だった。
「ショーが終わったらアクセサリーを掛けるラックがあって、みんなはそこに掛けたんです。僕達もそんなに貴重なものだって、失礼ですけど、知らなくて……」
純夜は世の中にこんなに美しい人間が存在するんだな、と感動して、ネックレスが無くなったことを少し忘れられた。
しかし酒はやはり止められない。毎晩の様になにも考えられなくなる程飲んで、ベッドにぶっ倒れた。今月の二十八日になった。純夜はバーで待ったりしないで、深夜ホテルの部屋をノックした。死んだような目をした優我がドアを開けた。酒臭い純夜に手を出してきた。二人は獣の様にお互いの身体をまさぐり合った。この時初めて純夜は優我と同じ地獄を見ることに成功した。
「優我、もう時間は上げないって言ったでしょ?」
今、決めてくれないと、待っていたら純夜は壊れてしまう。純夜は理屈に合わない生の虚しさを感じていた。この部屋のせいかも知れないと思った。
次の日から純夜は毎朝優我と赤いスポーツカー出勤をして、みんなを驚かせた。玲門のショックは各段だった。育人は最初から純夜が玲門と付き合うのは大反対で、スタイリストの彼はショップの大事なクライアントだから、揉め事になるな、と純夜を説得した。
純夜がショップに顔を出したら、そこに玲門がいた。純夜はご免ね、ご免ね、と涙目になって、玲門は男らしく、気にすんな、好きな奴がいるのは知っていた、と許そうと努力しているみたいだった。
優我のマンションの一番凄いところはベランダだった。百人くらいのパーティーが軽くできそうな広さで、広いジャグジーもあった。贅沢な造りのマンション全体が優我と兄の所有物だった。奥さんがいたんだな、と思える小さなものもあちらこちらにあった。キッチンの引き出しに整理されたスパイスの数々とか。忘れて行った、白い花の刺繍があるハンカチとか。
リビングを見回す。今まで純夜と付き合ったのはゲイの男好きが多かった。でもそいつらと違って、優我の趣味は男っぽい。車や飛行機の本があったり。クローゼットの服もファション寄りではなく、オーソドックスなシャツやスーツだ。本やCDを眺めて気付いたのは、みんな死んでいる人ばかり。現在活躍している作家とかは無くて、クラシック音楽でも、作曲者も演奏者もみんな死んでいる。
優我に聞いた。
「どうして死ぬことを考えるの?」
「そういう病気なんだよ」
それは諦めの言葉で、元気になろうと考えていない調子だった。自分はこの人の死に憧れるところに絶望的に惹かれている。優我に比べたら、ヴィクトリア朝のビーズの方がもっと生きている様な気がする。
書斎に俳優の写真が額に入って掛かっている。簡単な祭壇も置かれている。純夜はプールサイドの檸檬色の墓標を思い出す。線香の匂いがする。祭壇を見ても線香なんて何処にもないのに。ただの気のせいなのに。本物みたいな花が飾られていて、本物かな、と思って近くで見たら薄絹で精巧に創られた白薔薇だった。
蜜月は速く過ぎた。一緒に住みだした直後それは起こった。優我が豹変してよく喋るし、喋り出すと早口で止まらない。純夜を買い物に連れ出して、服を沢山買ってくれる。眠れない、眠れない、と純夜に絡んで寝かせてくれない。純夜がゲストルームに避難しても、ドアを叩かれる。これが双極性障害の躁状態なんだ、勉強したから知ってはいたけど実際に見るとびっくりする。
朝起きて優我を捜す。俳優の祭壇がある部屋にいた。俳優の写真が優我を見下ろしていた。優我の身体はこわばって、でも目は大きく開いていて、なにか見えないものを追っている。
純夜は東京コレクションで忙しくて、優我の兄である社長と相談して入院させた。ドクターにもっと早く連れて来ないと駄目だ、と怒られた。病気のことをもって勉強しないと。純夜は自分の方がもっと世話をされるタイプなのに。
東京コレクションは年二回行われるファションの祭典だ。純夜の知っているブランドもたくさんあるけど、聞いたことの無い新しい参入者もいる。日本のクリエーションを世界に伝える。ランウェイを歩くモデルだけでも千人を超える。
もう半年も経ったんだ、純夜の赤いネックレスが無くなってから。代表作を紛失されたということに、純夜は運命を感じていた。取り返しのつかない悲劇。それを自身の人生と重ねた。自分を不幸だとは思わない。しかし、淡い不幸は自覚していて、いつもなにか思い残す様な悲しさを感じていた。
東京コレクションはやっていて楽しいけど、デザイナーも必死だからジュエリーへの注文も多い。色を変えてくれとか、数をもっと増やしてくれとか。純夜達は毎晩遅くまで働いていた。風我から電話があった。純夜はアトリエにいた。
社長からなんの用かと思ったら。
「今日は二十八日だから、優我はホテルに行きたがったけど、ドクターは行ったら駄目だと言って、でもちょっと目を離した隙にいなくなったんだ」
「社長、俺は知らないですよ。ほっとけばいいんですよ。俺達それどころじゃないし」
「いいな、君。今まで優我に厳しいことを言ってやる人がいなかったから」
「当たり前ですよ、そんなこと。甘やかしちゃ駄目ですよ」
優我はなかなか退院できなくて、その間純夜は好きなことをしていて、楽しかった。今の会社に入ってから三回東京コレクションがあった。デザイナーさん達にフィードバックをお願いすると、兎に角メンズに面白いジュエリーがない。面白い帽子が欲しい、というお願いは何人ものデザイナーさんから聞かされた。
純夜はメンズのヘアバンドにシルバーのビーズが付いている、という商品を創り始めた。玲門がショップに来て、全部借りて行った。玲門は基本的にメンズのスタイリストだから、育人の機嫌もいい。
「長い時間が掛かったけれど、やっと純夜がメンズを分かってくれた。……そもそも社長にメンズのデザイナーを雇おうと進言したのは俺だから、責任がある」
そうだったんだ。だから育人はいつも純夜に厳しい。
純夜は風我に頼んでミシンを買って貰った。ヘアバンドの次は、とうとう帽子を創り始めた。よく見ると帽子の形が蝙蝠だったり、ヴィンテージの端切れを縫い合わせたり。帽子とお揃いの布のブレスレットを創ったり。玲門の予言では、純夜のお陰で倒産する帽子屋が幾つも出て来るだろう、と。
玲門がまた新作の帽子を全部借りてくれた。ファション雑誌の撮影だけど、タイアップだからギャラもいい。お礼に飲みに連れて行ってくれる。玲門とはちょっとだけ付き合って別れたけど、なんとなくキスしちゃったりはあって、友達よりは親密みたいな。
タクシーに押し込まれて降りたところは、見覚えのある場所だった。格好いい制帽を被ったドアマンがいて、純夜達みたいな東京のならず者みたいなファションの人間にも九十度のお辞儀をしてくれる。純夜は制帽の写真をこっそり撮った。
しかし、なんなの、ここって男を落とす為のバーなの? 優我に最初に連れて来られたのもここだった。
「こんなに高いところいいの?」
「大丈夫、ちゃちゃっと飲めば大したことないって」
純夜は窓の下の檸檬色のネオンを見た。プールを囲んでいる。ここへ初めて来てから、純夜の運命も随分変わった。優我の為に何回泣いた?
純夜の携帯から着信音がした。
「こっちを見るな。俺は今、バーカウンターにいる」
……二十八日だった。病院から出て来ていいんだろうか? 東京コレクションで忙しかった時、純夜は彼を突き放して、見舞いにも行かなかった。勿論、彼のマンションに住んでいて、彼の匂いに囲まれていた。でも実際に会うのとは違う。
一気に感情が湧いて来る。双極性障害という辛い病気を抱えて、自殺した俳優にこんなに憑かれて。
「泣くなよ。彼氏と一緒だろう?」
玲門は純夜と並んで座って、グラスを持っていない方の腕で純夜の肩を軽く抱いている。純夜の肩の上から手がぶら下がっているくらいの感じ。いつもの様に夏でもないのに袖無しで、全身ちゃらいスタイリストの見本みたいな奴。
「ただの友達。この人はこういうことをいつもする人だから……」
「ほら、泣くなよ」
優我からクマさんの絵文字がどんどんやって来て、全部で二十匹くらい仲良く並んだ。でもやっぱり泣いてしまって、玲門にホテルの糊の利いた立派な布ナプキンで涙を拭かれた。玲門の面倒見の良さは業界でも有名で、玲門が彼氏と別れる様なことがあったら、争奪戦が起こる。
純夜は優我の存在感を感じまいと、窓の下を覗く。しかしそこには檸檬色のライトが。逆に涙腺を刺戟される。玲門も純夜と一緒に窓の下を覗き込む。
「お前、本当にアーティストだよな。それに比べれば俺達スタイリストなんて、ごろつきみたいなもんだな。……でもなんで泣いてんの?」
純夜はやっぱり優我のことが好き。でもこの人のことを考えると辛くなる。優我はどうしてもこのホテルに来る。それを止めることはできない。入院していても毎月逃げて来るんだから。
その後純夜に大スランプがやってきた。仕事をしている振りはしていたけど、頭の中は空白だった。それが三日続いて、退職届を書いた。社長の風我は一日中外出で、その次の上司は育人だった。純夜は薄暗いアトリエを後にして、水色の引き戸を開けて、珊瑚礁の海へ泳ぎ出る。
「これは預かってやるが、暫く考えろ。なにもするな。貴重なアンティークビーズがあるのはここだけだって言ってたろ? 忘れんな」
純夜は自分の思い切った退職が上手くいかなくて不満を感じつつ街へ出た。表参道を北に歩く。原宿に近付く程、店のターゲットが若向きになる。ジュエリー屋があったから中に入った。成る程こうやって創るんだ。純夜はいつもパクられる側だったのに、もう少しでパクりそうになってしまった。
どうしよう。またクマさんを付けたら育人に殺される。宇宙人もきらきらの大宇宙も。
育人からメールが来る。純夜何処にいるの? 働いている間は、社員は何処にいるのか必ず報告する義務がある。もう辞めることを決めていた純夜はそれを無視して代々木公園に向けて歩き出す。酒が飲みたいな。このまま渋谷まで歩いて酒を買おうかな。
歌を忘れたカナリアっていう歌があったな。それって今の自分だな。検索してみる。
唄を忘れた金糸雀は
象牙の船に銀の櫂
月夜の海に浮かべれば
忘れた唄を思い出す
象牙の船ってなんだろう? 銀の櫂なんて何処で買えるの? 忘れた唄を思い出すことなんてあるのかな? ……風景がだんだん渋谷になっていく。
向こうからゴスロリで盛り上がった女性がやって来る。フリルとレースがいっぱいの真っ黒なワンピース。ニーハイのソックス。底が厚い靴。純夜は自分もああだったことを思い出す。毎朝時間を掛けて化粧をして、つけまつ毛にカラコン。とても楽しかった。お人形みたいな縦ロールをして。メイクに一時間以上掛けた。あんなに楽しかった自分を外見で表現すること。今では信じられないよな。人生の時間ってこんなに速く経つんだな。
トレンディーなブティックがある。純夜達がジュエリーを提供しているブランドだ。ショーウインドーのマネキンが純夜に挨拶をする。みんな純夜がデザインしたネックレスを着けている。
アンティークビーズでサンプルを創って、現在手に入るビーズで量産をしたもの。透き通った硝子に三つの色が浮いている不思議なビーズ。量産の為に似たビーズを探したけど、遥かに及ばなかった。オーナーはオリジナルを買い取りたい、と申し入れたが、社長は売らなかった。
もうなにも創れない。以前はトライしなくてもアイディアはあっちからやって来た。いつも自分に付き纏う不幸を噛み締めたくて、夕方になったばかりの居酒屋に入った。店は既に込んでいた。渋谷はいつでも買い物客と観光客で沸いている。
安いウォッカを瓶で買って、帰ろうとして駅に向かった。優我のマンションにあったウォッカを飲んで、あまり高級だから純夜は直ぐに飲み干して、それからは少しずつグレードを落として買える範囲で買っていたけれども、酔えればいいという風に大量に飲んでいたら、クオリティーはどうでもよくなった。
ファッションビルの壁全体を覆った広告に、純夜が創った帽子を被ったモデルさんがいた。あれは玲門が借りて行ったものだ。大手リクルート会社の広告。あんな栄光はもうないの?
育人から連絡が来た。ファッションの業界誌から純夜へのインタビューの話が来ていた。純夜はそれをすっかり忘れていた。早くアトリエに戻って来い、と命令される。
今、渋谷にいる、というメッセージを送ったら、後で払うから直ぐタクシーで戻れ、と言ってきた。退職届を出してしまった純夜はなにもかもどうでもよかった。酒臭い純夜には怖いものが無い。
インタビュアーは女性で、酔って焦点の合わない純夜を、アーティストだと良い風に解釈したみたいだった。彼女自身、風変わりなインタビューを楽しんでいるみたいだった。ファッション業界の為の業界誌。一般人の目にはまず触れない。
「東京コレクションの成功おめでとうございます」
「……過去の栄光ですけどね」
女性は可愛らしく首を傾げる。
「もう俺、なにも創れませんから」
育人が見かねて割って入る。
「今までもスランプはありましたけど、その度に直ぐ乗り越えましたから」
それは大きな嘘で、純夜がスランプに襲われたのは初めてのことだった。
「純夜さんはジュエリーの他にも帽子に挑戦なさったり、お忙しく活動されたますが、貴方の代表作ってどんなものですか?」
「赤いネックレスです。東京コレクションに出品して、その後紛失してしまったものです」
育人が赤いネックレスの写真を見せる。女性は大いに感動する。素晴らしいクリエーションだと。純夜にしか創れないことを認めてくれた。
「今でも夢に出て来ます。一番大事な作品が紛失した、という事実によって自分が不幸に生まれて来たことを信じられます」
育人が赤いビーズはヴィクトリア朝の貴重なもので、その時代以降この赤を創る技術が失われたことを説明する。
育人は今まで純夜の創ったジュエリーの写真を見せる。インタビュアーがクマさんと宇宙人のネックレスを見て、可愛い、と言う。
「純夜をメンズのデザイナーに仕立て上げるには長い時間と労力が必要でした」
脳が活動を停止したような救いの無いスランプ。ジュエリーを創るのは純夜の生きる潤滑剤だった。救いを求めて街を彷徨う。携帯に残る自分自身の作品を見た。今見ると稚拙な作品は多いけど、どれも愛おしい。
どんなことでも試してみた。純夜は放心しながら東京コレクションのビデオを観ていた。リビングで、大音響で。そこへ退院した優我が入って来た。純夜は気が付かなくて、優我は一度も見舞いに来なかった純夜を責めた。
大喧嘩になった。なにも創れないフラストレーションと、優我のお坊ちゃん的な我儘に憤怒した。大きなバッグに一週間分の服や仕事道具を入れて外へ出た。外へ出ても行く当てはない。玲門のところへ行けば暫らく置いて貰えるけど、純夜に恋愛感情を持つ彼を再度がっかりさせてしまう可能性がある。
純夜はショップに育人を訪ねた。丁度ショップの閉まる時間だった。表参道を行き交う人々の数は衰えない。
育人に笑われた。
「つい最近まで優我が好きだって泣いていた癖に」
何処にも行く所は無いし、やりかけだった量産の仕事もあったから、純夜はアトリエに入って馬鹿みたいに道具を出した。社長が電話で話している。盗み聞きをしたら、相手はどうやら優我みたいだった。社長に無理矢理三人でのスピーカー通話に入れられた。
「お前達は好き合って一緒に住んでいたんだろう?」
純夜が不貞腐れて言う。もう失っても怖い物はなかった。
「俺はもうどうなってもいいです」
社長に聞かれる。
「どうしてお前達はこんなに変わるんだ」
優我の声。
「俺は変わっていない」
「じゃあ、どうして純夜だけがこんなに変わるんだ?」
育人のところに一週間いた。唄を忘れた金糸雀を口ずさんだ。ウォッカを飲む量も増えていった。
調べるとウォッカの本場ロシアでは、ウォッカを冷凍庫に入れて凍らせて飲むらしい。アルコール度の高いウォッカは決して凍ることはない。そのことに浪漫を感じたけど、純夜はやはり一手間加えることに不純を感じて、常温でボトルから飲んでいた。
一週間目になって、純夜は優我のマンションに帰るか、自分でアパートを借りるか、という選択をする時が来た。でも給料の安い純夜にアパートを探すのは容易ではない。バッグを持って街をうろついた。楽しそうな買い物客に混じる。人が絶対見ていないビルの間に立ち止まってウォッカのボトルを開ける。
ショップで玲門に会った。
「お前は俺を振るという有り得ないことをしておいて、あの男と別れるのか?」
怒られた。
電車で銀座まで行った。老舗のデパートで絶望的にジュエリー売り場を歩いた。金色に輝く、既に自分とは縁の無い美しいもの達。
二時間近く硝子ケースを覗いて、店員さんの呼び掛けにも反応しない純夜に、警備員が声を掛ける。当然酒臭いのも直ぐばれる。バッグの中を見せろと迫られる。
「それって任意ですよね。貴方に俺の持ち物を見せる義務はないですよね」
二度と唄えない金糸雀と自分を重ねた。生きる価値の無いジュエリーデザイナー。純夜はバッグを開けて三分の一残ったウォッカのフルボトルを出して、床に投げ付けた。ボトルは気持ちのよい音を出して、見事に粉々になった。辺りに酒の匂いが充満する。純夜は笑い出して、酔っぱらいの笑いはなかなか止まらない。
バックヤードに連れて行かれ、びっくりする様な速さで警官が二人やって来る。またバッグの中身を見せろと言う。
「それって任意ですよね」
若造の癖に偉そうな警官。
「人のいる所でボトルを割れば、当然人を傷付ける恐れがあった」
「罪状はなんですか? 障害未遂? それとも俺が生きていること自体が罪なんですか?」
もう一人は警察官にしては美人の女性。
「君は酔っていて、ここでは話にならないから、警察署に行きましょう」
「酔っているからなんなんですか? なんで警察署に行くんですか?」
若造が口を出す。
「行きたくないんだったら、ここで取り調べをするから」
そいつは純夜はのバッグを開けようとする。興奮した純夜の頭にウォッカが回りだす。警官の腰の銃に手を伸ばす。
「俺には生きている価値が全くないからここで殺してください!」
デパートを出される時も純夜は暴れて、警官二人に両腕を凄い力で掴まれる。体力の無い純夜は宙に持ち上げられて足をばたばたさせた。
びっくりしたことに、ぶち込まれたのは警察署ではなく病院だった。狭い部屋に小さなベッドとトイレが付いていて、見かけは留置場と変わらないのではないかと思った。
酒が欲しいな、と純夜の脳が文句を言う。一時間程壁を蹴っていたら、流石に疲れてきて、酒に対する欲求も薄れてきた。ドクターも若造だった。こうやって人が若造に見えるということは、自分が年を取ったのが原因かも知れない。
そいつがにやつきながら言う。
「随分飲んでたらしいじゃない?」
ドクターの組んだ足から場違いなカラフルなソックスが覗く。純夜は不機嫌に黙り込む。
「君の名刺とみられるものが見付かったから、連絡したから」
「それってプライバシーの侵害ですよね!」
「君の様な病人には保護する人間が必要となる」
「俺はもう退職届を出したから、会社は関係ありませんよ」
若造の尋問が始まる。
「毎日飲んでいるの? 一日どのくらい飲むの?」
「誰が止めようが俺は死ぬまで飲み続けます」
ドクターは今の発言をコンピューターに書き留める。
「ジュエリーデザイナーって書いてあったから検索したら、随分活躍している様じゃない。僕はあの赤いネックレスが好きだな」
勝手に調べて、と純夜は憤る。
「まあ君、暫くここでゆっくりしていくように」
さっきの留置場に似た部屋に戻される。鉄格子の付いた小窓がある。外から鍵を掛けられる大きな音が響く。酒が抜けかけた痛む頭で、これってなにかの非現実性な映画みたいだな、と考える。ベッドに入って毛布を被ろうとすると手足が震えていることに気付く。毛布に虫がいっぱい這っている。純夜は恐怖で毛布を床に投げ落とす。
部屋に誰かがいる。そう感じて純夜は狭い部屋中を探す。きっとベッドの下にいる。純夜は長い間しゃがんで、いない人を探す。暗いベッドの下を見ていると、細かい粒が空中にいて、ぶるぶる震えている。あの粒はなんだろう。
会社に連絡したなんて。クリエーティビティを失った金糸雀はきっと会社を首になる。
風我が来るのかと思ったら、それは優我だった。この人を見ると純夜の胸が熱くなる。馬鹿馬鹿しいけど、純夜はまだこのお坊ちゃんが好き。優我は鉄格子の窓から小さく手を振る。
「なんだ、育人のところにいたんだ」
純夜は育人がよく着ているシャツを借りていた。
優我は部屋の中には入れて貰えなくて、留置場の看守みたいな人が見守っている。
「純夜、俺も調子いいし、早く帰って来いよ」
ドクターに飲酒していた期間が短いから大した離脱症状は出ないでしょう、と予想された割には手足の震えや頑固な妄想や鬱症状が出た。純夜の退職届は保留され、傷病手当金によって暮らしていた。
優我は重い精神病の薬を飲んでいるから眠りが深い。純夜は優我が寝てしまってから朝一番の鳥が鳴くまで飲んだ。思い出してみても、子供の時から純夜がなにかを創作していないことはなかった。焦りの次に絶望が訪れた。
今月の二十八日になった。優我はいつも会社から帰る時間がとっくに過ぎても家にはいなかった。純夜は優我の奥さんが言った言葉を思い出した。……あの人はいつも死に憧れている。そして若い男性に恋をしている……。奥さんからあれ以来連絡は無かった。
純夜は自分が持っている絵の具の一番赤い色を水に溶いて、俳優の祭壇にぶちまけた。白いシルクの薔薇が赤く染まってうなだれた。祭壇の上に掛けられた白いジャガードも真っ赤になった。俳優の写真だけは傷付けられなかった。破くには怖過ぎた。純夜は額の硝子にウォッカのボトルを打ち付けて、粉々になってもまだ打った。俳優の唇に赤い絵の具が飛んで、まるで口から血を垂らしている様に見えた。
こんな話を思い出した。ゴシックよりもっと昔、王様がクーデターで民衆に捕らえられ、絞首刑にされてもうとっくに死んでいるのに民衆の気持ちが収まらずに、王の死体が肉片になって粉々になるまで打ち据えた。
俳優の写真は剥き出しになった。この俳優の何処にそんな魅力があるのか? 死んで四十年経っている。純夜は俳優の綺麗な顔を見詰めた。彼も純夜のことを見詰め返した。檸檬色に囲まれた墓標が目にはっきり浮かんで来た。
夜半に優我の帰って来た音がした。祭壇のある部屋に真っ直ぐ行った。純夜は耳を澄ませた。彼の泣いているのが聞こえた。忍び泣きや啜り泣きでもなく、子供が大声で泣いているみたいだった。純夜はもうこんな地獄の様な恋愛を終わらせなければと思った。
優我の泣き声はやがて終わった。キッチンに行く気配がした。純夜が追うと優我は祭壇のある部屋に戻っていた。首にナイフを当てている。純夜は囁いた。
「動かないで」
優我の手から静かにナイフを引き剥がした。優我は硝子の無くなった額を抱き締めた。割れた硝子が手に突き刺さる。純夜は優我の手から写真を受け取った。俳優の目がまた純夜を見ていた。
職場で風我に呼ばれた。近くの気取ったカフェに入った。
「君はなぜ酒が止められないんだ?」
「優我は変わらない。だから俺が堕ちるんです」
「君は優我が死ぬと言ったら一緒に死ぬのか?」
風我は社長だから純夜もあんまり強いことを言うつもりじゃなかったけど。
「こんな話し合いは無意味です。俺達一緒に地獄に堕ちるんです!」
これ以上優我と住むのは無理だと分かっていた。
風我に住む所を見付けて貰った。同じ会社に勤めている女性。純夜と仲が良くて、作品のイメージも似ている。純夜は二部屋ある彼女のマンションに引っ越した。優我がいない時間に荷物を運んだ。ゴスロリの服は気に入っていたから捨てられなかった。吊るして見ていると、かつての純夜がホログラムの様にそこに揺れていた。
精神的に健康な人と暮らすことにいい影響を貰った。まだ酒は飲んでいるけど、量は減った。酒を飲んで脳が気持ちよく喉を鳴らしている時だけ優我に会いたくなって泣いてみたりした。
育人から電話が掛かる。
「直ぐショップに来い」
命令口調だな、とちょっと怒りながらも、丁度近くにいたのでなにも疑問に思わず店に行った。ショップはもう閉まっていて、でも中の灯は点いていた。
「すいません、こいつ酒臭くて」
育人がその人に謝った。細身のスーツを粋に着こなした、ファッション上級者だなと思わせる男性。名刺を渡される。誰でも知っているようなブランドのクリエイティブディレクターだった。あんまりマスコミには出ない人だ。だから純夜は顔を知らなかった。
育人が硝子ケースの中からなにかを取り出し、カウンターに置く。純夜の目になかなかそれが入って来ない。信じていいのか分からない。純夜の目から自然に涙が溢れる。育人が説明してくれる。
「これがこいつにとって、とても大切みたいで」
赤いネックレス……。二度と現実にならないと信じていた。
彼の名は白川さん。
「近所にフィフティーズのショップがあって、ウインドーにあったんだけど、どう見てもフィフティーズじゃない。店の人に聞いても何処から来た商品なのか分からない。三千円って書いてあったけど、僕は三十万でも買ったと思う」
育人が、三十万なんてそんなに大袈裟な、と口を挟む。
「いや本気で。このネックレスの正体を知りたくてジュエリーの問屋街を回ったけど、こんなビーズは知らないけど、金具なんかは新しいものだってみんなが言う。高価なアンティークを扱うショップのオーナーに聞いたら、このビーズはヴィクトリア朝のもので、それはこの赤を創る技術がその頃失われたからだって」
純夜は涙を流して聞いている。育人は話が長引きそうだと、コーヒーをいれはじめる。
「それでこのネックレスはどう見てもファッション性が高いと思ってネットで調べたら」
白川さんが泣いている純夜に携帯の写真を見せる。あの業界誌のインタビュー記事。
「夢にまで出て来るって書いてあったから、早く届けようと思って」
育人が聞く。
「これ、メンズだってご存知ですか?」
「だって、サイズがメンズじゃない」
純夜は自分の創ったネックレスを恐る恐る手に取った。赤い硝子ビーズの懐かしい重み。育人が言い訳をする。
「こいつはもともとよく泣くんですよ」
「僕、フランスのブランドのクリエイティブディレクターに選ばれて、パリに行くんだけど……」
ブランドの名前を聞くと、びっくりするような歴史のあるメゾンだった。もっとびっくりするようなことを彼は口にした。
「……君がこういうジュエリーを創れるなら、ぜひ僕のブランドでジュエリーを担当して欲しい」
「でも俺スランプでもうなにも創れませんから……」
「なに馬鹿なこと言ってるの? 僕達の初めてのファッションショーまであと半年だよ」
白川さんに冗談でしょうと軽く笑われて、その瞬間、純夜にクリエーティビティが戻って来た。それと同時に、ファションを自己表現として楽しむことができるようになった。モノトーンを着ることが多かったのに。ずっと悲観的だった人生にちょっと色彩が帰った。
暫く前から気付いていたけど、その月の二十八日は純夜の誕生日だった。朝ショップを抜けて水色のドアを開けると、カウチに優我が一人座っているのが見えた。仕事に戻れるのかな、元気になったのかな、と純夜は喜ぶ。でも顔色は悪い。動きもスローだ。純夜は明るく話し掛ける。
「俺の赤いネックレスが見付かったんだよ。届けてくれた人がいて。その人パリのデザイナーさんで、俺にジュエリーを担当してくれって」
「よかったじゃない。パリに行けるな」
そんなことあるのかな? 純夜は考えたこともなかった。頭に色んな事柄が竜巻の様に駆け巡って、純夜はついこんな質問をしてしまう。
「優我は今月またホテルに行くの?」
「俺はもうあそこへは行かない。誕生日だろ? 俺は君とずっと一緒にいる。……君のことを愛しているから」
そんなことを言われても純夜は全く信じていなかった。愛という言葉には何処かすえた、腐った臭いがする。優我には似合わない。優我には不幸が必要だった。それは彼を生かす為の黒いガソリンの様なものだった。
風我が出勤して、優我と出て行って、優我は戻っては来なかった。
純夜の創作は進まなかった。白川さんが連絡をくれた。純夜は聞いてみた。
「白川さんのインスピレーションはどんなところから来るんですか?」
「観たら一生忘れない、血を売ってでも手に入れたい、買ったら一生捨てられない、そういうもの」
へえ、そんな凄いものがあるんだな、と純夜は感心する。
「なに言ってんの? 君の赤いネックレスのことだよ。ショーまで後四か月だよ」
純夜は誕生日を有給にして、昼間からウォッカを少しずつ喉に流し込んだ。新宿へ行こう。純夜は優我と初めて会った時と同じ服装をした。痩せたな、と感じた。ワンピースが大きい。カラコンやつけまつ毛が上手くいかない。以前なら簡単にできたのに。ウィッグを被った。鏡を見た。これが純夜。優我と初めて会った時の。
大瓶のウォッカを買って紙袋に入れて貰った。都会の隙間で一口ずつ飲んだ。ビルとビルの間だったり、誰もいない小さな忘れられた公園だったり。新宿西口のビルを歩き回った。都庁の前に出た。当然だけど都庁の前では酒は飲まないようにした。純夜は優我が誕生日は一緒に過ごすと言っていたのを信じていなかった。彼がホテルに来るのは何時だろう?
ホテルのバーに行ってみた。まだ早いからお客さんも数人だった。パノラマのネオンもまだ若かった。今、六時だ。これまでの経験だと、優我は九時前後に現れる。純夜は新宿の駅に戻って地下街のカフェに入った。人込みに来るといつも思う。この人達はここでなにをしているのだろう。でも自分だって、自分自身だって、なんでここにいるのか分かっていない。
トイレに立った。女性用のトイレ。化粧を直した。他人の様になった顔。死化粧という言葉が浮かぶ。優我からメールが来た。何処にいるのか聞いている。純夜はこう返した。
「俺達、死のう、今夜、あの部屋で」
それを送ってから、もうメールは見ないことにした。ホテルの近くにある大きな公園に入った。ベンチに座って、誰も見ていない時、ウォッカを飲んだ。バーに戻った時はもう九時を過ぎていた。ドアにスタッフがいて、お待ち合わせですか、と聞かれた。そうではない、と伝えて、純夜はエレベーターに乗った。部屋のある階で降りた。まだ早いという予感がして、ノックはしなかった。
一階に戻ると、団体客がいた。何処の国から来たのだろう。楽しそうな人達。純夜は楽しみなんてもう自分の人生にはない、と感じた。馬鹿みたいなメロドラマ。今夜ここで優我と死ぬ。大きなホテルには陰になっている部分もたくさんあって、純夜は隙間を見付けてはまた酒を飲んだ。
最期に優我を見たくなった。会いたくないし、話もしたくない。見るだけでいいから、バーの階までエレベーターで行った。上の階へ吊り上げられる度に、心拍数が上がる。優我はいなかった。十時を過ぎていた。
待ち伏せをしているという、卑しい気持ちがした。酒に浸かった脳が狂った指示を出す。ホテルを出よう。重たい硝子のドアを押すと、向こうから入って来る人がいる。優我だった。底の厚い靴に慣れていないのと酔っているから純夜はよろけて、紙袋から滑り出たウォッカのボトルを落とす。硝子が飛び散る。
純夜は一番大きい破片を拾うと、大声を出す。
「俺に近付かないで!」
「純夜、俺は君を捜しに来た。一緒に誕生日を祝うつもりで」
「そんなことは信じない!」
純夜は血管に沿って硝子で傷をつけた。酒の回った血の勢い。コンクリートに散らばった細かい硝子。その上に純夜の血が流れる。純夜は赤い血の上に粉々になった硝子片を並べる。
あの赤いネックレスは俺が創った。透き通った硝子に赤い色が浮いている。俺はビーズに憑かれた様に、正確に作業をした。色と光と形。理屈に合う様に並べた。あの時、俺は光の強さと方向を考えていた。少しの色の違いを感じて配色をした。
救急車の大きなサイレン。ヘッドライトが純夜の血が注がれた硝子を突き抜ける。純夜に手を差し出す人。
「純夜、俺と一緒に生きて行こう……」
俺は今ここで死ぬことはできない。俺にしかできない創作があるんだ。俺だけの才能があるんだ。
純夜、は差し出された手を握って立ち上がる。
「俺も優我と一緒に生きて行きたい」
純夜は病院の緊急病棟で落ち着くまで座っていた。優我が車から大きな包みを持って来る。純夜はばりばりと包み紙を破く。巨大なテディベアが純夜を見て笑ってくれる。いい大人がこんなもの、と思ったけど、可愛いからすっかり気に入った。
二人のどうにもならないメロドラマ。優我の聖域を赤い絵の具で破壊した純夜。もしこれからも優我がホテルに行っても、純夜がウォッカを飲み続けても、二人で助け合えば、きっと生きて行ける。
純夜はクマさんを抱いていない方の手で、優我の手をしっかり握った。
了
初出 9/29/2024
沖雅也の魂に捧げる。
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