大都市夜行考 Introduction to Love
見てしまった。
元カレの颯太が、噂の後輩とテーブルの下で手を繋いでいるところを。
テーブルのアンダーグラウンドで、私はこのまま閉店まで膝を抱えて座っていようかと思った。落ちたハンカチなんて拾わなきゃよかった。薄暗かったのに、見たくない情報ほど一瞬で目に入ってくるのはどうしてだろう。
二人から立ちのぼる雰囲気から感じ取ってはいたけれど、見た途端、まるで手の中で大切に温めてきた小さな雛が死んでしまったように手がすっと冷えるのを感じた。
ふいに目の前ににょきっと褐色の大きな手が表れた。表れたその手は、捨て猫を箱から取り出すように私をそっとひっぱり出した。
律さんだ。
眩しい光、笑いあう男女、騒々しいBGMに私はよろめく。律さんは人差し指を唇に当ててシーってやった後、その指を店の外へ向けた。
「逃げよう」
「へ?」
大通りから一本入った道を駅から反対の方向へ律さんはどんどん歩く。
「駅から遠ざかれば遠ざかるほど、頭の中の地図が薄くなる気がしない?そして、次の駅が近づくとまた濃くなっていくの」
「地図に載ってない道もたくさんあるよ。おーちゃん」
律さんは居酒屋や小料理屋が並ぶトンネルみたいな屋根付路地に入って行った。先の方は行き止まりのはずだった。でも赤提灯の角を曲がると排水溝に蓋をしただけの小道が続いていた。
その後も行き止まりかと思うと、階段が現れたり私道への扉があったりして途切れなく行先は開かれた。ドキドキする。冒険みたいだ。
曲がり角や扉の前で律さんは必ず立ち止まって私が来ているか確認する。その度に話す。
「颯太から声かけてきたくせに、先に心変わりって、なんだかな」
「おーちゃんは、心ここにあらずって感じだからさあ、手に入んないって諦める人多いよ」
颯太は、学食で私の隣にポイっと座って急に話しかけてきた知らない人だった。彼のそのフレンドリーさは「アメリカン攻撃」と名付けられていた、とのちに私は知った。気になる人にはHi!ってやってしまうんだそう。
思い出しつつ歩いていると、目の前に塀が立ち塞がり、ついに行き止まりとなった。律さんは塀に貼りつくと、蟹みたいに横に動いて視界から消えた。
塀をよく見ると人一人通れるくらいの隙間があいていて、三面コンクリの川沿いに細い細い道が続いているのが分かった。塀の隙間をなんとか通り抜けてその道を歩き始める。両側にはそう大きくない古い雑居ビルの裏側が建ち並んでいる。小道はだんだん川とともに深く下がっていって街のレベルとは随分離れていった。
川横の道までは街の灯りは届かない。暗いのだ。見上げればビルの窓に他人の営みが見えているのに。
ダーツの的、
ヘアサロンのタオル干し、
ホワイトボードの行動予定表。
切り離された私たち。
これ以上進むと暗渠に飲み込まれるという場所まで行きつくと、律さんはそこにあった鉄製の梯子を登っていった。私も慌てて登る。急勾配の梯子を上りながら振り返ると、沢山の刺繍が入った絨毯みたいに夜の街が広がっていた。背中に冷たい風が吹き付けてくる。
「寒い」
「3度目の留年した時にさ、俺、真冬にプールの建設現場にいたの。あれは寒かった」
「どこの?」
「阿蘇にある分校」
「なんでまた」
「阿蘇にも学校はあるし、プールは必要だ。そして、俺は金が欲しかった」
私はそのエピソードを知っていた。律さんは当時の彼女にプレゼントをあげたくて一冬を費やし、単位を盛大に落とした。吹き荒ぶ寒風の中、高原でプールのコンクリート打設をしている律さんを私は頭に思い浮かべた。
梯子を登りきった私の目の前にはぽかんと原っぱが広がっていた。道路に囲まれた土地にビルと住宅をどんどん建てていって最後に余ってしまったような歪な形。
ここはどこなんだろう。
私は赤いボトムスを背高泡立草の根元に据えて空を見上げた。
律さんは
「水買ってくる」
って、どこかへ行ってしまった。
ここはなんて落ち着くんだろう。
サコッシュに入れたままのスマートフォンには、目まぐるしく通知が来ているはずだ。見ないけど。ひょっとして今頃、グループLINE内で公開記者会見でもやってたりして。熱愛発覚みたいなさ。
濡れた頬にゆるりと風があたる。
空から目を離さずにぐいと手でぬぐった。
私をめがけて追い迫る矢を感じていた。
視覚で
聴覚で
嗅覚で
味覚で
触覚で
私の中へと伝達してこようとする。
きらきらから逃れて
息が切れるまで全力疾走した。
そっち側には行かなかった。
目下にひろがる世界から皮膚一枚で隔てられ、
その内側に私がいて、ただただひとりだ。
口を開いてもひとり。
閉じてもひとり。
私の世界。
狭い狭い世界。
小さな世界。
ここは。
ここは、どこでもない。
ただ一つだけ分かっている。
私は喉がカラカラで、律さんが差し出す水をゴクリゴクリと喉を鳴らして飲むのだ。
了
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