あの日あの時あの場所で
お腹のおへそがある辺りを、ゆっくりクルクルとなでる。ぽよんとしていて、パジャマの上からでもほんのりと暖かさが伝わってくる。
クルクルくるくるなでている。
もうかれこれ、小一時間。
なでているのは、娘のハトちゃんのお腹。
ハトちゃんは、肩をふるわせて嗚咽しながら、とめどなく涙を出している。お腹にも力が入ったり、抜けたり。
その瞬間は、突然やってくる。
見落としてはいけない、と思っている。
思えば、その片鱗はあった。
不安定なまばたき。
物を置くときの音。
扉の開け閉め。
些細な行動のひとつひとつに現れていた。
子どもがSOSを出す瞬間。
寝る前のひとときに、とてもとても小さな声で「おかあさん、あのね。」
とおそるおそる話し始めたハトちゃん。
その時には、もう、ずっと感じていた不安な気持ちが抑えられなくなってあふれてきていたんだろう。
目尻にぽっちりと透明な粒が盛り上がっていた。
普段は、その日にあった楽しいことを、それはもう嬉しそうに報告してくれる、良い時間なんだけど。
でも、その日は違った。
「Mちゃん、やめちゃうんだって。」
声を絞り出して、言う。
堰を切ったように、今思っていることや感じていることを話し始めた。
詳細は割愛するが、自閉症スペクトラムという特性を持つ小3女子にとっては、自分では解決できない一大事であった。
娘のSOSを全力で察知し、汲みとる人でありたい。
常々そう思っている。
しかしながら、最初に湧いてきた気持ちは
「あ、面倒な展開になりそう」
だった。
母親の私は光の速さで計算した。
事実を確認するために連絡を取るべき相手方リスト
出来ることは何か
出来ないことは何か
出来ることを実現するための調整先リスト
実現するためのコスト
実現するための時間
そして私は、
「むずかしいね」
とひとこと、言ってしまった。
すると、ハトちゃんの顔はみるみるクシャクシャになって、大きな粒がパタパタ落ちた。ハトちゃんは、私の言葉の感触から否定されたと感じてしまったようだ。
あうう。
ちがうんだよ。そうじゃないんだ。
おかあさんは、あなたの味方だよ!
私の頭には、その感情が強くカミナリのように閃いた。
シンプルに、それを伝えたい。それが伝わって欲しい。
ハトちゃんは、小手先の解決法が知りたいのではないのだ。
大人同士の悩み相談ではそれは有効かもしれない。しかしながら、ハトちゃんにとっては逆に混乱を招くし、解決法の押し付けになってしまう。
それで、冒頭の「お腹くるくる」である。
子ども一人一人それぞれに心が落ち着くシチュエーションは異なると思われるが、ハトちゃんの場合は「お腹くるくる」なのだ。赤ちゃんの時からずっと、くるくるしてきた。
ある子にとっては何か美味しいものをつまむことかもしれない。
ある子にとっては海や川や水辺を見ることかもしれない。
延々とLEGOブロックを積んだり崩したりを繰り返す子もいるかもしれない。
ハトちゃんは、お腹をくるくるされながら、泣きに泣いた。
私は、ハトちゃんの話すことを時系列に置き換えて前後を確認したり、登場人物を整理したりすることに徹した。
とにかく聞いた。思うことがあっても黙っていた。ハトちゃんがやっと発信したSOSを聞き取りたい。伝えようとしてくれた、その勇気に報いたかった。
行きつ戻りつ、つっかえつっかえ最後まで話終わると、ハトちゃんは眠ってしまった。
すぅすぅという規則正しい寝息を聞きながら、私はありとあらゆる対策の検討段階に入った。
⭐︎⭐︎⭐︎
子どもがSOSを出す瞬間、その小さな頭にあるのは、「今、困っていることを知って欲しい。それを受け止めて欲しい。」ではないだろうか。だのに、私を含めてほとんどの大人はそれを叶えることがとても難しいように思う。
ハトちゃんの気持ちが溢れ出たのは、たまたま夜だったが、朝だったらどうだろう。打ち合わせの予定がある日の出勤前だったら?話そうとする子どもに向き合えるだろうか。
そして、親は子どもの話をつい中断して、自分がよかれと思う解決策を提示してしまう。
(業務じゃないねんぞ。)
最短ローコストでは子どもは納得しない。
解決の方に重点を置いてしまい、今、SOSを発している目の前の子どもの心の痛みを見逃してはいないか。
ハトちゃんは次、いつSOSをいつ発信するのかわからない。何もかもを投げ打って、万象繰り合わせの上、それに対峙したいと思う。他ならぬ我が子のSOSなのだ。
そして、ふいにそのSOSは発されなくなる日が来るだろう。
親の庇護下からの卒業。
自分で解決策を探し始める日が。
「ハトちゃんは、いつまで私にSOS発信をしてくれるかなぁ」と、寝息を聞きながら、甘く切なく考えた。
あの日あの時あの場所で、味方がいて受け入れてもらったという記憶は、ハトちゃんの心を強くする。願わくば遠い将来、この六畳の寝室で私の手にくるくるしてもらったことを、心の中にほわっとあたたかい灯がともるように思い出して欲しい。