青いくるみも吹きとばせ
客席からこちらを見る目、目、目。
練習とは違った雰囲気に高揚しているクラスメイト。
その中でキミは、緊張して舞台の上に立っていたね。
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娘のハトちゃんが通う小学校では、毎年秋に文化活動の発表会がある。その本番が土曜日にあった。
ハトちゃん達三年生の出し物は、宮沢賢治の「風の又三郎」の劇と「雨ニモマケズ」の暗唱である。
だからこのところずっと、学校からの宿題は宮沢賢治の音読三昧だった。
ハトちゃんの出番について、私はてっきり、クラス全体で発声する「おはやし部分」だけだと、思っていた。ハトちゃんが声を出しても出さなくても発表に影響がないところだと。しかし、違った。
ハトちゃんにはソロでの台詞が割り振られていた。
初めて家で音読する日に、ハトちゃんは少し偉そうに「ここね、ハトちゃんだけが言うところなんだよ。」と教えてくれた。「へえ。良かったねぇ。」と喜びながらも私の頭の中は不安で満たされていた。
ハトちゃんは、識字に障害がある。
そして、自閉症スペクトラムの特性のせいか極度の緊張しいだ。
ハトちゃんが声が出なくなったり泣き出したりしたら、劇が中断してしまうし、影響ありすぎである。こうなったら、何度も練習して脳にたたきこむしかないと、二人で猛特訓した。文字を追うと途端にたどたどしくなってしまうハトちゃん。そこで私が台本をまず読みあげて、その直後にハトちゃんが繰り返すように発声してもらった。流れをつかむために前後も読んだ。
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう
ハトちゃん担当のセリフは、『青いくるみも吹きとばせ』だけである。
短いし、簡単だ。
しかしながら母親の私からすると大役に思えた。
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これまでも、練習をみっちりやって準備万端な状態で挑んだはずの数々の行事で、ハトちゃんはフリーズしてきた。
保育園の年中さんのお遊戯会は、5人グループでアリエルを踊るはずが、ハトちゃんは舞台袖でずっと固まっていた。
年長さんの運動会では、マーチングで旗を振りながらオープニングアクトをする役だったけど、泣いてしまって先生と一緒に演技をした。
小学校に入ってからは一度も大きな出番はなかった。
彼女の特性のせいからか、物凄くあがってしまうのだ。来賓や保護者が入った場所で観衆の視線を感じながらパフォーマンスすることは、ハトちゃんにはとても難しい。
私は今回の本番を迎えるその日まで、学校の連絡帳に不安な気持ちを綴って、担任の先生に相談していた。クラスメイトに迷惑をかけるのではないかとそればかり気にしていた。担任の先生は連絡帳に、
「私(担任)は、ハトちゃんがソロでの台詞を言えると思っています。そして、本人も言えると思っています。だから大丈夫です。」
と返事してくださった。さらに、
「ハトちゃんが立候補したんですよ!」
と教えてくださった。
風の又三郎の劇について配役を決める際、立候補制にされていたんだそう。そして、わがハトちゃんはなんと又三郎に立候補していたのだ!先生の方で(さすがにそれは大役すぎると)別の立候補の子に決定されたけど、やる気を買われてハトちゃんにソロでの台詞が割り当てられたのだそうだ。
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どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう
出し物がいよいよ始まる前、舞台の上を見つめる私の頭の中にはハトちゃんが家で声を張り上げていたフレーズがこだましていた。そしてそれが風の音なのか、私の心臓の音なのか、もはやわからなくなっている。自分でも肩に力が入り、手に汗を握っているのが分かる。
ハトちゃんが緊張にさらされ続けないように、出番は、先生の配慮で始めの方にしてある。
その時がきた。
ハトちゃんは、すっくと立ち上がると、自分の台詞を大きな声で一生懸命にそらんじた。
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう
台詞を言い終わると、それはそれはピッカリと光るような笑顔で一礼をして座った。
次の全体暗唱は雨ニモマケズである。
大きな口を開けて伸び伸びと、楽しそうに声を出すハトちゃんの姿は輝いて見えた。開放感と達成感にあふれている。
先生はおっしゃった。ハトちゃんの自信は、クラスメイトとの関係で培われたものだと。「ハトちゃんならやれる」という信頼の空気がクラス内にあるから、一人で舞台に立っているという感覚ではなく、皆で立っているという感覚なのだろうと。
大成功だったね。
おかあさん以外の人はみんな、ハトちゃんは出来るって思ってたんだね。
先生も、クラスのお友達も。
そして何よりハトちゃんが、自分は出来るって思ってたんだね。
どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう
今度は、それが風の音なのか、心から溢れ出した感情の奔流の音なのか、分からなくなった。
心の奥にあった青くて固い心配は吹き飛ばされた。
青いくるみも吹きとばせ。