遠くの誰かさんにありがとうを。
きっかけは、100円ショップでスケジュール帳を買ってあげたことだった。いつもは行かないショッピングモールの中にある、ちょっとだけオシャレ系の100円ショップへ娘と出かけた。春らしく新学期応援のコーナーが設けられていて、お弁当箱やらペンケースやらノートやらが心踊る感じでディスプレイされていた。パステルカラーのグラデーションが綺麗なスケジュール帳を見た途端、娘のハトちゃんはいたく気に入って、買いたいと手から離さなかった。
文字を書くのに時間がかかるハトちゃん。
文章を書くのが難しいハトちゃん。
何を書くのだろう?
絵でも描くのかな。
そう思っていた。
うちに帰るやいなや、ハトちゃんはスケジュール帳を取り出すと、カレンダーのページをすっ飛ばして、フリーのページを開いた。そして突然、『日記』を書き始めたのだ!これまでに小学校から宿題で出た絵日記は、絵だけ描いて提出してきた人が、である。
綺麗なスケジュール帳の何も書かれてないページに、初めて、自分から何かを書きたいと思ったようだ。全然気負っていない。「今日、何日だっけ〜」とか聞きながら、鼻歌なんか歌いながら、文字を書きつけている。
たった2行だったけど、朝の買い物を「でいと」と思ってくれて、楽しかった気持ちが伝わってきた。
たったニ行だったけど、この文がハトちゃんから出てくるまでには気が遠くなるようなトレーニングの積み重ねがあった。それが、走馬灯のようにフラッシュバックした。
こんな日が来るなんて!
⭐︎⭐︎
どなたかは分からないけれど、100円ショップのスケジュール帳をデザインしてくださった方へ。
あなたがデザインしたスケジュール帳は、田舎に住む9歳の小学生の女子の心を動かしました。ほんとに気持ちを明るくウキウキさせてくれる色合いです。少しラメっているところも良いですね。思わず、そこに綴じられたページに、何か楽しいことを書き込みたくなります。そんな気持ちを運んでくれます。
ハトちゃんは、色んなトレーニングをしてきたけれど、識字に障害があって、これまで、文章を紡ぎ出すことがありませんでした。文字はバラバラで意味をなさないかけらだったのです。でも頭の中に言葉たちは確かにあって、話し言葉みたいに、いつか紙の上に出てくると療育の先生方から言われていました。
「書いて欲しい」という私達からの促しにはほとんど応じなかったハトちゃんですが、この素敵なデザインのスケジュール帳を手にしたとき、心の内側から、きらきらした「書きたい」という衝動が湧き出してきたようです。それは、何にも変えがたい自発的な作文の発露でした。
100円だけど、プライスレスな機会をくださいました。私達、親や指導者には到達できない、素晴らしい心の内側へのアプローチでした。
綺麗なカバーをありがとう。
⭐︎⭐︎
私の知らない、遠い空の下の誰かさんは、どんな気持ちでデザインしていたのだろう。4月始まりの、スケジュール帳。
・春っぽい
・明るい
・女子っぽい
そんなキーワードでデザインを依頼されたのかな。
もしかしたら、納期が迫っていて、深夜にたくさんたくさんデザインした中の一つかもしれない。すごくくたびれながら、コーヒーをガブ飲みして、睡眠を削って描いたデザインなのかもしれない。
そうやって作って貰ったスケジュール帳がハトちゃんのデスクの上にある。
私は思う。
私達が毎日毎日、意識せずにやっている夥しい量の日常の営みって、ただ時間を消費するだけの些末な繰り返しのように見えて、実は、巡り巡ってどこかに繋がっているのではないかと。
思いもよらない所に繋がっているのではないかと。
だれかの内側を揺さぶる何かを詰めた小瓶は、この世界を無数に漂っていて、ある日、そっとたどり着く。
それは、マグカップに描かれた小さな絵だったり、丹精込めて育てられた一輪の牡丹だったり、光るディスプレイに映る誰かが書いたnoteの一節だったりする。
誰かにとっての何ともない日常の一部でしかないそれらは、一方で、遠くの誰かにとってはかけがえのない兆しやきっかけ、癒しになっていることがある。
心躍るグラデーションの手帳を手に持った私は、ハトちゃんが生まれて初めて書いた日記に、びっくりして、泣いたり笑ったりしながら、心は千々に乱れた。世界中の誰かや、過去未来や、宇宙空間にまで想いを馳せてしまった。
嬉しかった。
⭐︎⭐︎
この春、私はごく自然に生きている。
仕事に行ってチームの仲間といつものように意見を出し合って、取引先の人に冗談を言って笑って、うちに帰ったら老犬と散歩に行って、娘のハトちゃんと一緒にご飯を作る。何も変わったことはやっていない。
このなんてことない日常の一粒一粒が、遠くのだれかに、たゆたう小瓶として届く日が来るのかもしれない。
私は、その希望を胸に、生き始めたと思う。