不快・嫌いな表現を守るということ

1 表現の自由に関する私の考え方

まず、不快な表現や嫌いな表現をどうして守る必要があるかを話す前に、自分の表現の自由についての考え方を示しておきたいと思う。

私の表現の自由に関する考え方は「全ての表現は、明確に法律に反しない限り、どんなものでも自由であるべき。しかし、自由には責任も伴い、著しく不適切であれば、非難されることもある。この表現は価値があるが、この表現は価値がないので規制してもよいといった考え方は、逆に対立を煽るだけで意味はない。すなわち、一言でまとめれば【すべての表現は平等で上下関係はない】」というのが、私の考え方である。

私の嫌いなものに、BLや男性アイドルといったジャンルが存在する。私もかつては少々血の気があった時期もあった。萌え絵が規制されるべきならば、BLも平等に規制すべきと言っていた時期もある。しかし、今では嫌いなものも含めて、少なくとも「感情論で叩く」ことはしないようにしている。

また、どうしても批判する必要がある場合でも、なるべくフォローするような内容を加えて、過度に刺激することがないようにできる限りの工夫をした。ある時から私は「表現規制反対派のオタクのみ、仲間にすればいい」という考え方から「表現の自由を守るという価値観をより広く普及させ、仲間を増やす、敵を減らす」ということを考えるようになった。

次は、どうして嫌いな表現まで守る必要があるか、お話しようと思う。

2 嫌いな表現を感情的に叩いても敵が増えるだけ、下手すれば新たな規制を呼び寄せる原因になる

嫌いな表現を批判して得られるものは、基本的には何もない。

それよりも「お前らはあの時、俺ら(私ら)の好きな〇〇を叩いた」憎まれたり、論争の具にされるケースが多い。結局、萌え絵を叩く人々に「けど、BLは守るんだね」とか言っても、効果はほぼないのである。

それに事実として、BLはすでに東京都の不健全図書などで狙い撃ちにされており、決して安心できる情勢ではない。こんな状況でBLを叩けば、BLオタクからも「これだから表現の自由戦士は」と言われてしまう。

そこで「BLオタクのなかにも萌え絵を規制されて嫌な思いをした自分たちのように、嫌な思いをしている仲間がいる」と見方を変えてみると、また違った景色が見えるかもしれない。

私が最近、リアルでボランティアをしたり、スペースで発言する機会が与えられたとき、たまに言っていることに「BL好きとも協力したい」という考え方がある、これは何度か関連する内容をツイートしたこともある。従来のようにBL好きを叩くのではなく、確かにBL好きにもいわゆる「BL特権」みたいな人達はいるだろう。しかし、全てではない。なかには「穏健派や中立派」もいるはずだ。私がたまに言う「BL好きとも協力したい」という言葉の意味は「BL好きのなかにいる、表現規制反対派や中立派、慎重派とも、できれば協力関係を築きたい」という意味である。

「ちょっと説明すれば、味方になってくれそうな人」「下手に刺激しなければ中立派でいてくれそうな人」敵に回さないことも大切だからね。

これは、今後「表現の自由を守る」という価値観をより普及させるためにも必要な考え方だと思う。

それでも「嫌いな表現を叩いてもちょっと敵が増えるだけだろ」と思っている人もいるかもしれない。だが、それは違う。もし仮に、BLにも自主規制が必要だという動きが加速して、本当に自主規制させてしまったり、自主規制寸前まで追い詰めたという事態になったら、何が起きるだろうか?

そう「私は表現の自由戦士から攻撃された」とか「あいつらのせいで自主規制させられた」とか「私たちは自主規制したから、お前らも自主規制しろ」と言える状況にしてしまう。それは、圧倒的に不利な状況を作る可能性があるものだ。それだけではなく、その他のオタクとBLオタクの間で不要な対立が発生し、今後いつ起きるかわからない表現の法規制などの危機に、協力して対応できなくなる可能性まである。こんなことになったら、非常に面倒である。

そうなると、萌え系やエロゲ、ホラー、グロテスク、政治的表現、あらゆる表現に飛び火する。対岸の火事だった規制が突然飛んでくるお金と表現規制は天下のまわりものなのだから、この表現はよいとか悪いといった「表現に優劣を決めて差別する動き」極力減らすべきである。

 また、表現の不自由展についても同じである。あれは、街宣車による抗議も受けたという話を聞いた、ここで表現の不自由展の作品たちを考えると、確実に今まで萌え絵などが受けてきたような弾圧を受けていると言わざるを得ない。これは、表現の不自由展が規制されそうになっているという意味であり、一つの表現が規制されそうになっているということだ。過去の話は重々理解しているが、ここは表現の不自由展を擁護すべきだと思う。誰かの嫌いが誰かの好きであるということを今一度思い出すことにしよう。規制派と同じになってはならない、ここで理性的対応を取れば、必ずそれを見てくれている人がいる。表現の不自由展を擁護する人が、全員萌え絵は規制せよと思っているわけではない。そういう人に「私たち、表現規制反対派は政治的な表現も平等に守ります」という態度を示すことがとても重要。そういう根拠をたくさん積み重ねることが「表現の自由戦士はエロの自由しか守らない」という規制派の主張の信憑性を下げることにもなると思ってほしい。

3 表現の自由を守るという「価値観」をより身近にするために

確かに、ネット上の規制派に対応することも重要ではある。全く無視をするというわけにはいかない。なぜなら、今の時代、企業や絵師もネットやSNSを駆使して宣伝活動や広報、場合によってはファンとの交流などを行うことが増えている。このような情勢下で、ネット上で大暴れする過激な規制派を放置することは、企業や絵師を萎縮させることに繋がる。そのため、適切な反論や企業側、絵師側を擁護するツイートをすることは今後も続けるべきだと感じている。

 しかし、今回の都議選やゲーム条例をめぐる一連の動きでもわかるように「本物の規制派」静かに確実に準備を進めて襲ってくる。表現規制を真面目に考えている人々は超党派的に、物事を進めている。そのことを考えれば、こちらも「政党だけ」で判断することは避け、超党派で協力することが求められる。表現規制派がどの政党にもいるように、表現規制反対派もどの政党にもいるのだ。

 さらに重要となるのが、一般層への訴えである。表現の自由を守るという価値観はいまだに「エロを守りたい一部の変態が主張するものだ」という認識が根強い。一般層は全員規制派というわけではない、必ず慎重派や中立派もいる。そういう人たちにどれだけ「この人達、変な人ではないな」とか「感情論でなんでも取り締まる人よりは賢い事を言っている」と思ってもらえるかが大切だ。表現の自由を守るという価値観をより普及させるには、身内だけで主張するのではなく、アニメやゲームを悪いとは思わない系の一般人に対しても主張すべき。もちろん、一般人にも理解してもらうためには、エロゲが規制されてる。みたいなコアな内容はあまり扱えない、しかし、多くの表現の自由を守り、嫌いなものや多くの人が不快に感じるものにも表現の自由は存在するということをわかってもらえれば、それは間接的にエロや萌えを守ることにも繋がる。書き方が稚拙で申し訳ないが、私の言いたいことの大体が伝わってくれればそれで充分だ。

4 最後に、思いついたことをまとめてみた、あとがきっぽい何かを書く

「表現の自由を守るためには、敵を減らし、味方を増やす、従来は敵とした人々のなかに、本当に味方になってくれそうな人はいないか、できる限り多くのオタクとの協力、一般層の理解が得られてこそ、多方面からの表現の自由をまもる【力】となる」

「自主規制は実に対症療法的である。ネットが普及し、個人個人が規制派として表現を叩き、絵師や企業に直接圧力をかける現代において、規制派ひとりひとりが納得する自主規制を検討していては、何も描けなくなる。多くの表現の自由を守っていくなかで、どうしてエロは規制されてよいのか?これも表現の自由的には平等に保護されるべきものではないか?という認識が広がってくれれば、それに越したことはない。もう、規制派や社会に頭を下げて自主規制でお許しくださいというのはやめよう、自主規制はもうすでに十分すぎる」

「もしかしたら、私の理論は、極めて理想的で非現実的なものかもしれないが、私の頭では(全ての表現は平等に守られるべきで、嫌いな表現を守ることも好きな表現を守ることに繋がる)という考えしか浮かばなかった、これからも表現の自由を守る先輩方や議員の方々の話を聞いて勉強したい」

最後に、長文、乱文失礼しました。

お読みいただきありがとうございます。