正しいオタクとは何者か ~自主規制至上主義の襲来~
・はじめに
2021年下半期…特に11月は、多くの表現の自由に関する問題が発生し、現在でも解決していない問題が多数ある。例えば、松戸市Vチューバ―の件、そして温泉むすめの件、セーラー服の絵が叩かれた問題など、短期的に多数の問題が同時に起きている。
そして今も、また新たな火種が起きている。萌えをめぐる表現の自由の問題は2021年になり、激増している。私も、今年、特に8月以降は、ほぼ休みがないというくらいに、対応や活動に追われている。しかも、Twitterのみではなく、パブコメやスペースでの活動もあった。
今、急激な変化を迎えている萌えと表現の自由の問題について、今回は批判された企業や業界側とオタク・クリエイター側の2つの視点から、考えてみようと思う。前半の企業や業界側の話はそこまでではないが、後半のオタクとクリエイター側の話は、闇が深い部分もあるので、念のため閲覧注意である。しかし「過激な圧力からの逃走」が一部のオタクやクリエイターに何をもたらすのか、その効果と行く末は知っておいて頂きたいと考えている。
第1章 萌えが叩かれたとき、企業や業界がどう行動するかを考える
まず、萌え絵の展示企画などを行い、それらが女性差別や性的な搾取であると批判され、抗議を受けた直後など、急性的に見られる行動を考える。
パターン1 徹底的に無視をする
多くの場合は、何らかの対応をとるが、なかには、そうしたクレームには一切反応しないという姿勢を強調する対応もあり得る。これは、ただ文句を言いたいだけの人には大変有効であるが、それでも文句を言う人はいうので、どこまで耐えられるかも重要になってくる。
パターン2 撤去する
ある意味、最悪の対応です。これは、該当する絵を描いた絵師や担当者に「公共の場に出すべきでない絵」というレッテルを貼ってしまい、場合によっては傷つけてしまう。これに謝罪が加わった場合は、とてもまずい。全面的に降伏したとみなされたり、規制派さんの実績にされる可能性も出てくるからである。
パターン3 ゾーニング対応をする
例えば、見えずらい位置に配置する、あるいはカーテンや壁を置いて隠すなどの対処をすることである。これは謝罪や不適切だったという文言がプラスアルファされていなければ、問題がある対応とまでは言えない。ただ、規制派の実績にされる危険性はあると考えている。また、撮影禁止の展示会が増えるなどする可能性はあり、不安要素ではある。
次に、批判や攻撃を受けて、しばらく経過してから見られる 慢性的な反応について考えると、以下の5つがあり得る
パターン1 撮影禁止の展覧会、展示会が増える
パターン2 萌えを扱うことをためらう、リスクが高い表現と判断される
パターン3 過剰なまでのゾーニングや年齢制限
パターン4 宣伝方法を限定してしまう(ポスター広告などは批判の原因になることがあるため)
パターン5 「自主規制しろ」「もちろんするよな」みたいな、自主規制に関する同調圧力の形成
第2章 正しいオタク~自主規制至上主義の襲来~
さて、本日のメインです。
まず「正しいオタク」とは何かを説明するために、表現の自由をめぐる問題を2000年代以前まで遡る。
今は、表現規制の方法や種類が多様化し、SNSの普及により、個人が規制側として、絵師や公式、企業を攻撃できる環境ができてしまったが、昔は、表現規制の方法といえば、法規制・条例規制・市民団体からの抗議・国際社会からの圧力がメインだった。今はさらにSNSでの集中攻撃・ネットを用いた攻撃・デマ拡散による攻撃など、多種多様な方法が加わった。
昔は、基本的に「公権力」や「市民団体」といった「組織による規制」がメインだったと言える。少なくとも、今のような個人が規制派として各々活動し、インフルエンサーのもとに集って攻撃を仕掛けるといったものはなかった。そのため「自主規制」が大変有効であった。
規制派議員や市民団体も「鬼」ではない。もちろん、人情や情けという感情もあったし、ネットが普及する前と比べれば、話も通じただろう。
つまり「業界団体でしっかり監督、自主規制します」「厳しい年齢制限を導入して監視します」と言って頭を下げ、自主規制で許してください。というのがある意味では「法規制でガチガチにされるのを防ぐための主流的な対応法」だったのである。実際に自主規制により、過度な法規制を防ごうとした事例が複数残っている。そのため今でも「自主規制」を絶対視するオタクやクリエイターは少なくない。
さらに以前は本屋やゲーム屋の方針で、〇〇は学生服を着たお客様には売らない、といった独自の対応をしていたお店もあったと聞く(有名な例としては、学生服のお客さんには電撃萌王を売らない本屋の話や、セーラームーンはハイティーン向けとして分類といった類の話がある)
第2部 第1節 「良識」を振りかざせば気持ちもいい
おそらく、これは意味がわからない文章だと思うので詳しく説明する
以前からTwitterを中心に「オタクくん論法」を多用している人達の存在はご存じだろうか?
そう、名前は出さないが、一部のオタクの行為を勝手にオタクの代表と言わんばかりの口調で説教をしたり、これだから世間から怒られるといった、あの論法である。
実は、これ、かなりまずい傾向なんだよね。
なぜかというと「キモいオタクの問題行動」について「議論」する、のではなく「良識あるオタク」という自分に浸ることを優先しているから。なぜ、そう言えるかというと、まず、議論にはあまり適さない言葉遣いをする人がいるからである。一般的に「オタクの問題行動を減らすための議論」をするならば、最初から「これだからキモいんだよ、オタクくん」なんて言わないと思うんですよね。
何人かは「オタクくんをいじるのを楽しんでるよね?」と疑いたくなる例もある。それに、私の知り合いの人に、この点について聞いてみたが「キモオタを叩くのは楽しい」という点については「そうだろう」との回答をいただいている。心理学的にも、良い事より、悪い事をしている時の方が楽しいとか、人間の脳は良い事より悪い事を記憶しやすい構造をしている、などと言われることがるもんね。
そりゃあ、良識を振りかざし、オタクをいじるのは楽しいだろうが「それ」にハマったらお終いだと思いますよ……正義は取り扱い注意ですからねえ…
第2章 第2部 「正しいオタク」というヤバい概念
正しいオタクと聞いて、皆様は何を考えるだろうか?
マナーがいいオタク?
常識があるオタク?
迷惑をかけないオタク?
はい、確かに、それも正しいオタクでしょうし、もっと言えば「何が正しいオタクか、どういう状態になれば正しいオタクと言えるのか?」という定義はない。つまり、決まっていないし、一人ひとりの道徳や倫理観によっても異なってくる概念なのです。
しかし、皆さん「正しいオタク」は恐ろしい意味で使われる場合もあるんです。そう、例えば今回のような表現規制問題が連発しているような時は特にあり得ます。
皆さんには先ほど、正義や良識を振りかざすのは楽しいという闇の話をしましたが、ここでこうした萌え批判や差別に連続的に晒されたオタクのなかには何を考える人がいるか、それはね「徹底的にゾーニングをして、規制派や世間の要求に合わせた表現だらけにすれば、もう表現規制を怖がる必要がない」という禁断の思考です。つまり、規制派にすり寄って、望む通りの自主規制をするから、萌えの存在は許してと言うのです、そして「徹底的にゾーニングされたり、規制されたが、存在は許された【萌え】」という、とんでもないものが生まれます。このとき、オタクは「正しさ」を意識します。
社会に揉まれ、規制派に叩かれ、国際社会からは日本はポルノ大国と怒られる。いろんなものによって歪んでしまったオタクの中には、こうした「正しさ」に「正しさ」を見出し、それに従わない人々に「だからオタクはキモいんだ」と説教を始めます。このときは、自らは正しさに浸っており、おそらく冷静さは落ちています。
このような長文だと分かりにくいでしょうから、要約いたします。
要するに「自主規制で社会に許してもらい、ある種の正しさを得る事で、共感と支持を得て、自主規制をもって、萌えという【存在】は残そうという、新しくも、恐ろしい【オタクの生存戦略】」ですよ。
つまり、言葉は悪いですが「萌えのために規制派やゾーニング要望者の肩を持つ」ということです。
もはや、普通の方法では萌えを救えない、そう思ったオタクが規制派に降伏するという悪夢ですね。これ、すでに起きてると思いますよ。
たまにいますよね、突然規制派の味方になったり、そうかと思えば、また表現規制反対派になったりする、普段は女性差別的表現とか言いながら萌えを叩くが自分の好きなジャンルの話になったら、急に「違う、これはキモオタ向けなんかじゃない」と言い出す。私は、これ、ある種の規制派の犠牲になってしまった人とか、規制派に魅入られてしまった人だと思ってます。
実際、一部の規制派は非常に「演説」がうまいですからね。
温泉むすめ騒動で、萌えに絶望し、規制派になった方が楽だと言った人、結構いましたよ。私は、これ危ない兆候だと思ってます。
なんとかして、あちら側になってしまい、嫌な思いをしたり、かつての仲間と撃ちあうようなことならぬよう、対応や作戦を考え、オタクに「まだ絶望するのは早い」と言えるようになる必要があるのです。
ここで言う、正しいオタクとは、正義や良識を振りかざし、自らの萌えを守るため規制派やゾーニングを過剰に信用してしまい、全く逆のことをしてしまう、という意味です。本人は正しいことをしていると思っても、それは本人だけかもしれないよね。ここら辺は、これ以上掘り下げると闇しかない問題だから、これくらいにしておこうかな。
第2部 第3節 自主規制至上主義の襲来
自主規制によって、とりあえず表現を守ることはできる。しかし、それは破られます。かつてラノベの表紙が問題になったとき、撮影されたのは「撮影禁止の店舗内」でした。ゾーニングは破られることもあるのです。自主規制だって完璧ではありません。
言葉では理解していても、実際に効果はあるので、やってしまいます。
自主規制をして安心したいのです、これだけのことをした、もう責められない。これで叩かれずに済む。そう思ってしまう。
しかし、今の規制派は恐ろしい。簡単なゾーニングなら、破ってしまう。
オタクの醜態が見たくて、Twitterを探し回り、エロい展示を選んで写真を撮り、あたかもそれが大きく、目立つかのような印象を付ける。
表現規制を求める人やゾーニングを求める人には、確かに心の底から子ども達の健全育成や女性の保護に尽力している方もいます。しかし、中には「オタクを叩きたい」という「正義の悪」に支配された人もいるのです。
加えてネットでは「自分の好きな情報」や「自分と同じ考え」が出やすいという特徴があります。つまり、その感情が無限に増幅されうる環境があるのです。いいですか、皆さん「適度なゾーニング」とは、誰からも見れないようにする、隠すことではありません、なんでも18禁にすることでもありません。本来は、ちょっと見えにくい位置に移動するとか、表の入り口から一本なかに入った場所に置くとか、そういった「細かな配慮」なのだと思います。それはその表現が嫌い、見たくないという人への配慮であり「こんな表現は許されんからしまえ、隠せ!」というものとは異なるのです。
本来のゾーニングとはこうした「怒り」や「憎しみ」「侮蔑の心」「差別心」からくるものではなく「優しい配慮の心」から来る、穏やかなものではないでしょうか?
自主規制とゾーニングで一時的に守られた表現
それは、果たして、本当に「その表現」を「守れた」と言えるものなのでしょうか?冷静になって考えてみたいと思います。
最後に一言
「正義」と「正義」がぶつかったとき、今回で言えば「オタクの楽しみたいという【正義】」と「女性搾取だ取り締まれ、という【正義」、これらが衝突したわけですが、この時生まれるのは「より良い正義」ではありません
「正義」と「正義」がぶつかったとき、そこに「歪み」ができ「悪」というものが生まれるのではないか?高純度な正義は中毒性があるのです。
正義に酔わないように、酔ってよいのは推しキャラに抱きつくときですよ―