ほしい現実を描き続ける
昨日アイネクライネナハトムジークという映画を見てきた。私たちの恋愛観に大きく関わってくれた『愛がなんだ』の今泉監督が手掛けた映画で、『ピースオブケイク』の多部未華子ちゃんが出ているから、なんかもう見るしかない。
映画館で映画を見ている間にメモがとれないことが悔しいくらいに心に残しておきたい言葉があった。
大人になるとねー、大切なものがわからなくなっちゃうんだよねえ。だから、他力本願になりたくなることもあるんだよ。
負けたら、勝ち続けていたときにわからなくなったことがわかりました。
『後になって、あの時、あそこにいたのが彼女で本当に良かった』って幸運に感謝できるようなのが、一番幸せ。
劇的な出会いにばっかり目が行ってると、もっと大事なことがうやむやになるんだよ。
このあたりは、映画を見ていない人しかわからないと思うので、私のメモです。
周回遅れなんだよ。
なんかねー、みおとかづきとパパと、この感じが好きなんだよねえ。
人生には色々な出会いがあって、それは運命でもなんでもなくてただの偶然なんだけれど。財布を拾って出会うこともあれば、アンケートに答えてくれた人かもしれないし、子どもを授かった相手、美容師さんの弟かもしれない。でも、どんな出会いもどうにでもなるわけで、映画の中では、色々な偶然と出会いが重なり合い、みんな必死に、誰かと一緒に幸せになりにいっていた。
人はきっと自分だけの幸せのためには生きれなくて、勝手に幸せになることはない。
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最近ずっと考えているのは、ほしい現実とほしい未来。両方とも作れるんだと思う。意思さえあれば。変わる勇気を持っていれば。
だけど、短期的な誘惑に惹かれてしまう。私はそれでほしい現実も未来も失ってしまいそうになっていた。なんとなく憧れるあれこれや、孤独を満たしてくれるもの。でも、手元に引き寄せてみたら、それらは泡のように消えて行った。
私のどこかには、傍から見た私が強くいるようで、その見栄えを気にしている。私の短期的な誘惑はそれが多い。それで満たされて、それで幸せになれて、失うものがなければ、別にいいんだけどね。
私は何かゴールに向かって生きている人ではない。愛する友人たちや家族と過ごす幸せな時間が在り続けていて、今と重ねてきた過去を肯定できていて、社会や誰かを幸せにすることができていれば、死んでも後悔しないと思う。
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職場に向かう途中、お母さんに『私がどうなったらお母さんは幸せですか?』とLINEで聞いてみた。お母さんはいつも『ゆかとみな(妹)が幸せならお母さんはそれでいいから』と言う。
『お母さんのことはどうだっていいでしょ。自分が幸せなら』と返ってきた。
いつもは駆け足で下るエスカレーターで、左側に立った。涙が零れそうだったから。
人は自分だけの幸せのためには生きられないと考えていること、結婚や出産が両親に伝えられるわかりやすい「幸せ」なんじゃないかと言った。
『結婚や出産なんてたかが20年くらいのもの。人生は長い』
『死ぬときにありがとうって言って死ねたら幸せかな』
『あのときあれやればとか後悔しなければよいのでは』
職場のディスプレイの前で目を見開いた。涙が落ちないように。
一般的な、普通の、親に『私は幸せです』と伝えられるわかりやすい出来事が、結婚や出産だと思っていた。でも、もうそういうの嫌だなと思っている。
一般的な関係を表す言葉が少ないのも嫌だ。親友とか彼氏とか家族とか、そこに収まらない関係だってたくさんあるんだよ。だって、それらの定義づけられた言葉たちは、私を幸せにしてくれない。
言葉の定義は誰も決めていないし、私の見栄えなんて知らない。ってわかってるんだけど、すぐ戻っちゃうから、ここに記しておく。私はもっと自由なんだよ。自由な分、自分が自分でいることの責任もある。
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あらゆるところでやたらめったら価値を出すことに躍起になったり、居場所をたくさんつくることに必死になったり、オンラインにつながりを求めたりして、消耗して、そんな自分にいらいらしていたけれど、今年は偶然そういう機会が減って、その分自分と向き合うことが増えて、今でも辛いけれど、よかったと思う。
人は変わるって、私が私を幸せにするために信じたい。