死んだと思ったから(闘病日記の終わりに)
生きてる。
当然のことみたいだけど、全然当然ではない。
ありがたいことに背負っていた病気が寛解扱いになり、入院も解けて、通院に切り替えてもらえることとなった。
久々のシャバの空気はすぐに体に馴染み、子どもと遊んだり料理したり買い物したり、もう入院中の生活がどんなものだったか思い出せないほどに、こちらの生活が「日常」になった。
それでも日々、子どもの顔を見たり、話しかけてもらったり、出来ることが増えたのを知ったり、そういう嬉しいことが一つあるたびに、これが最後かもしれないと思うようになった。ネガティブなニュアンスばかりでなく、だから今を大切にしようというポジティブな響きでもって。
チバユウスケの献花には行かなかった。
そもそもの話としてベイビー抱えて行けやしないんだけど、その辺がどうにかなっても行かなかったと思う。今せっかく心がそれを受け入れようとする形になってきたのに、また新しい刺激で持って悲しみやしんどさに振れてしまうのが怖いから。
以前は時間が経つごとにこういうのを後悔ばかりしていたけど、今はそんなこともないと思う。思い返しても「あの時ああ思ったんだから」と納得できるように選択しているつもりだ。冬になったら私は勝手にチバユウスケを思い出す。それでいい。
本当に本当に好きだった。
バースデイがツアーで地元の汚くて狭いライブハウスに来てくれることが決まった時、大スターがこんな僻地に来てくれるなんて……と感動したと同時に、この場所が彼らを迎えるに相応しいか勝手に不安にもなった。
だけどライブが始まったらすぐさま、萎びた地元のステージはロックスターの舞台になった。チバユウスケの歌は、ギターは、その存在は全てを塗り替える力を持っていた。もちろんそれはThe Birthdayというバンドにも言えることだ。
配信されたインスタライブの最後がOH!BABY!で締められていたと知った。残るものはある。新しく生まれるものもあるそうだ。それは救いじゃないけどそれに縋ってこの先も続いていくんだ。
失われるものばかりに目を向けてしまうのは、ある意味でどうしようもないことだと思う。その感覚は身をもってじゅくじゅくに経験した。
だけどその後ろに今あるものが当然あって、それを日頃から意識して見られるようになったのは病気になって良かったこと寄りのひとつ。まあ病気になって良かったことなんて本当は一つも無いはずなんですけど。
だから私はThe Birthdayの曲を聴く。喪失感を受け入れる体制になってくれつつある心がそのまま穏やかであれるように、彼らの曲はいつまでもずっと格好いい。
公式がThe Birthdayの最後のEPを出す準備をしているとアナウンスしてくれた。ヒライハルキがInstagramの投稿を消した理由がなんとなく分かった気がした。
そういう一つ一つを楽しみにとにかく今日も日常を生きてる。これが日常と呼べることに毎日感謝してもいる。
なんか、描いていた理想との剥離とか、仕事に対する意識のどうちゃらとか、本当にどうでも良くなった。これからもこうやって健康に生きていけますように、願うことはそれだけで十分すぎるほどでかい。