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『金閣寺』柏木の哲学を、解明する《その2》
すこし長い動画になりましたが、⇒ YouTube
『仮面の告白』から『豊饒の海』への三島文学の美を、深く感受する鍵を
ニーチェ、バタイユ『エロティシズム』から明らかにできた!
と喜んでます (^_^)/~
⇧『モーセとアロン』コーミッシェ・オーパー・ベルリン 2015 ユロフスキー
『悲劇の誕生』にある、ディオニソスの秘祭 vs バビロンの狂宴 の差異が、YouTube から感受できます。
金閣をなぜ焼くのか? 全体のテーマを記します。
17:50 ~「変貌してゆく金閣」として動画で述べる内容の、詳細です。
①少年時代・・・「幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。」とこの傑作は書き起されます。「幼時」それは三島氏にとっても「父」から、祖父から官僚であった家系から感受した、国の美であると読めます。その一方、
母は第三章で語られる不義、父への裏切り、そして「私は貧しい見すぼらしい母を憎んだ。」母とは現存在だ。それに対して、
父から、国の中核にいる父君を見る三島氏にとっても、感受される金閣は、
日本の伝統の美、美しい文化のその絶対、守るために生命を賭すべき美、だったのです。
②敗戦のとき・・・第三章で「完全な無音」「音楽の怖ろしい休止」「あらゆる意味を拒絶」とされます。この動画で述べる、ディオニソスの生命の歓喜を絶たれた、という事で、「意味」とは『生きる意味』であり、
『生きる意味が無くなった』と伏線が張られていますが、今はまだ「意味」が何なのか?不明です。『少年時代に、あらゆる日本人が言い立てた戦死の美に、意味がまるで無くなった』とのテーマなのですが、
今はまだ不明の、謎とされて読者をいざないます。
③初めて女性に挑んだとき・・・柏木に導かれた、下宿の娘とのとき「巨大な音楽」「世界の意味を充足する」と第五章に記されます。
タナボタの動物じみた、現存在の交合が、金閣の美に拒まれた。こんな交合ではない、圧巻の歓喜が金閣の美にあるのだ!と私は解釈しました。その修行僧の心境を、第七章はこう記します。
「私の本当の省悟の師は誰だろう。本当の嗣法の師は誰だろう。」「「美」と言いかけたり、「虚無」と言いかけたりするだろう。すると満座の笑いが起り、笑いの中に、私はぶざまに立ちすくむだろう。・・・・・・」
三島氏がこの文章を書いてから、14年後に決行した死への世間の嘲笑を、
既にこの『金閣寺』で予言したと、その氏の胸の内を思うとき、私はまた決意を新たにしております。
④つぎに「よみがえった有為子その人だと」<第二章>と瞠目した人と、
歓喜を交せるか?のとき・・・
第七章で「金閣そのものが、丹念に構築され造形された虚無」その虚無に阻まれます。
ディオニソス(=青年の性の歓喜) を、アポロン(=造形された金閣の美)が、
交歓を拒んだ、と解釈してこの動画を作成しました。
この点、動画では、出典や論拠を明示しつくせず、文章のみの表現の強さを実感しました。YouTube、note記事、原稿、と作ってみて、
media それぞれの強みを実感できました。
柏木の世界観は、3回シリーズで、この後 1回で完結させて、
南泉斬猫 → その 3回にわたる、三島氏の独自の解釈 → カント『判断力批判』を読解して、
そこで『金閣寺』読解への武器がそろう気がしております。
この動画で、ニーチェ・バタイユ は動画の表現レベルの極値に肉薄できたかと存じます。ご感想、ご意見をお待ちしております。
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