デザイン漫遊記 球体(第一回)
はじめに
1980年代前半のある真夏の午後、一人でHonda CB400のバイクに乗り、Interstate15 (フリーウェイI15)を南下し、アイダホ州ポカテロ (Pocatello)を過ぎて、ユタ州に入る手前のロッキー山脈の乾燥地帯を気持ち良く走っていました。
空は快晴だったのですが、あっという間に分厚い灰色の雲に覆われ、突然、直径1cm程度の大きさだった雹(ひょう)が、直径3cm程度の大きさになって、物凄い勢いでバラバラと降り出しました。
アイダホ州やユタ州は7月でも、突然雪が降ることがあると聞いていましたが、雹が降るとは思ってもみませんでした。前方を走っていた車も、流石にスピードを落として徐行運転になったため、私も前を走る車に合わせてエンジンブレーキでゆっくりとスピードを落とし、さらにブレーキをかけてスピードダウンを試みようと思ったのですが、ブレーキをかけた瞬間、気付いたら転倒していました。路面は、ビー玉を敷き詰めたかのように、雹で覆われていました。
この時が、私が人生で初めて雹を目の当たりにし、体験した瞬間であり、自然界の球体の脅威や凄さ、神秘性に触れた瞬間でした。
前回の「デザイン漫遊記③」では、「丸いデザイン」について話したので、今回は「球のデザイン」をテーマにしようと思って、書籍やWikipediaやネット検索をしていく中で、柴田順二教授の著書「球体のはなし」(1)に巡り会いました。
今回は、「球体のはなし」を中心に自分が興味深いと思った箇所などを紹介しながら、数回に分けて「球体」をテーマに話していきたいと思います。
柴田順二教授と著書「球体のはなし」
まずは、柴田順二教授のプロフィールを簡単に紹介します。
柴田順二教授は、1974年慶応義塾大学工学研究科博士課程修了、工学博士であり、専門は機械加工、表面工学、トライボロジー、工作機械です。2003年には芝浦工業大学専門職大学院教授に就任し、2008年には定年退職し、芝浦工業大学名誉教授となりました。
柴田順二教授は、「球体のはなし」のプロローグで
『われわれをとりまく生活環境には、天然物、人工物を問わず無数の形体が混在する。しかし、天然物と人工物の形を比べてみると、両者の間に歴然とした違いを見出すことができる。天然物は自由曲面からなり、常に唯一無二である。人間の容姿がすべて異なるように、自然界においてはひとつとして同じ形はない。
これに対して人工物には、形体の再現と大量生産が至上命令とされている。人間は技術によってつくりやすい形体の再生産を繰り返しているのである。極論すると、機械的につくり出すことができる人工形体は平面、円柱、球体に限られ、「ものづくり」とはこの基本3形状およびその組合せを生み出す術であるともいえる。
このように天然物と人工物はともに機能性を標榜しながら、創造の哲学がまったく異なり、やや誇張するなら、両者の形態にはほとんど共通性を見出せない。
しかし唯一の例外がある。それが球体である。天然の球体といえば太陽、地球、月、真珠、眼球、水滴等々が、また人工の球体としては軸受玉を筆頭にボールペン先、ビー玉、野球やサッカーボールなどがすぐに連想される。意外に思われるかもしれないが、球とは自然界にも人工物にも共通して存在する、きわめて異質な形体なのである。
人が球にひかれるのは、自然界にも通じているこの形体から宇宙の神秘を感じるからかもしれない。』 参考文献 「球体のはなし」https://amzn.asia/d/4JVh06I
と話されています。
自分の周りに球体は当たり前のように存在しているので特に意識する事もなかったのですが、”球体のはなし“プロローグの「球とは自然界にも人工物にも共通して存在する、きわめて異質な形体なのである。」を読み、球体が「きわめて異質な形体」だということに気づかされました。
「球体の外形はデザイン的には非常にシンプルですが、同時にきわめて異質な形状」でもあります。今回はその不思議さを探っていきましょう。
攻玉の起源
まずは球体の歴史を探ってみましょう。
『日本における攻玉(こうぎょく:玉をみがくこと)の起源は、三内丸山遺跡(縄文時代:青森)で出土した直径約6mmの翡翠小玉(2)をはじめ出土品から明らかになっています。旧石器時代後半から縄文時代にかけての約2万年にわたり、玉佩(ぎょくはい:身につける装身具)や垂飾(たれかざり:首飾り、耳飾りなど)のために管玉(くだたま)、丸玉(まるたま)、勾玉(まがたま)などの玉類が作られてきました。その中でも勾玉は、世界に類を見ない日本独自の玉の形状であり、三種の神器(3)のひとつでもあります。』
と、書かれています。
さらに、「日本列島の旧石器時代」(4)の「墓制」の項目によると、
『旧石器時代の土坑墓からは、死者の生前の装身具や石器、玉などが見つかっており、それらにはベンガラ(赤色顔料、べにがら)が塗られていることがあります。』
とのことで、縄文時代、そしてさらに昔の旧石器時代から人によって球体がつくられていたといえそうです。
参考:三種の神器「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」
「三種の神器(さんしゅのじんぎ)」(3)とは、『日本神話において、天孫降臨の際にアマテラス(天照大神)がニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)に授けた八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉(5)の三種類の宝物の総称を指します。また、これらの宝物は日本の歴代天皇が古代よりレガリアとして伝世してきた三種の宝物としても知られています。』
八咫鏡・天叢雲剣と共に三種の神器のひとつである「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」(5)は、「八尺」というのは通常「尺」の転訛であるが、この場合は上代の長さの単位である「咫」のことで、8尺は当時の尺が今より短いため約180センチメートル(cm)、8咫は約140cmに相当します。
この長さは、玉の周とも、尾を含めた長さとも、結わえてある緒の長さとも言われています。また、「八尺」は単に大きい(あるいは長い)という意味であるとも、「弥栄」(いやさか)が転じたものとする説もあります。
「瓊」という字は赤色の玉を表すことがあり、それは瑪瑙(メノウ)のことであるともされます。現代の瑪瑙細工では深紅の赤瑪瑙が細工物や勾玉などによく使用されており、一般的な色ですが、江戸時代に原石を加熱して赤く発色させる技法が発明されてからのことです。
玉作技術の発達
玉作(原石から滑らかな球状に磨き上げる技術)は、中国を経由して朝鮮半島から出雲に伝わったとされています。古代には、玉作の中心地が大和や出雲にあったようです。攻玉を作るには、輝石を砥石に擦って根気よく磨くことが必要であり、高度な技術が必要だったそうです。
大きな玉を磨く場合、2〜8寸(約60mm〜240mm)の大きさで、数か月を要する場合もあったそうです。京都は、古代からの玉作の伝統を引き継ぎ、良質な天然砥石や金剛砂(エメリー研磨材)の産地も近くにあるため、玉磨きに適した地域でした。
このような古代から続く攻玉の技術は、室町時代末期に西洋文化が伝来したことで、再び息吹を吹き返しました。眼鏡レンズ研磨に利用され、眼鏡レンズ職人が誕生したとされています。
そして、これらの技術は現在のものづくりにも脈々と引き継がれています。
第一回は、ここまでです。次回、第二回をお楽しみにしてください。
筆者経歴:
株式会社346 大野 清
米国大学で会計学・機械工学を修学。帰国後、PTCジャパン、ソリッドワークス・ジャパンなどでテクニカルサポート領域の管理職を歴任し、2022年より株式会社346に参画。346社では生産管理・CADシステム運用を担当。
参考文献:
(1) 球体のはなし | 柴田 順二 |本 | 通販 | Amazon
(2) Sanmaru Search|三内丸山遺跡縄文デジタルアーカイブ (pref.aomori.jp)
(3) 三種の神器 - Wikipedia
(4) 日本列島の旧石器時代 - Wikipedia
(5) 八尺瓊勾玉 - Wikipedia
提供:株式会社346