他人事


一人暮らしを始めて5年、ニュースを見なくなっていた。

交通事故、殺人、暴力、病死、自殺、殺し合い、この世は毎日そんなことばかりだ。
遠い国の誰かがいじめられて死んだこと、一度も会ったことのない誰かの病気のこと、飲酒運転で跳ね飛ばされ即死だった人のこと、誰かを助けて身代わりに刺されて死んだ人のこと、テレビはいつでも教えてくれる。
一人で暮らすようになってから、実家では、家族に助けられていたんだと気づくようになった。
同じ部屋にもう一人いれば、私が受け取る量は半分で良い。これは感覚的な話だが、4人いればテレビの力も4分の1になる。「ひどいね」と言えば、「ひどいね」と受け止めてくれたりもする。だから、テレビがついていても、平気でご飯が食べられた。
一人暮らしを始め、自分以外の誰もいない環境で一対一でテレビを観るようになり、私はわかりやすくペシミスティックになった。

テレビをつけなくなった。
ニュースアプリも消した。ツイッターやネットワークサービスはもともとやっていない。一日数回届くラインニュースも、結局、ブロックした。
つい最近まで、職場に届く新聞だけが情報源だった。交通事故、殺人、暴力、病死、自殺、殺し合い、昨日も、今日も、そして多分明日も、世の中は知るべきニュースで溢れているようだった。実家にいた頃は毎日読んでいた新聞を、私は読まなくなっていた。

当然、世情に疎くなる。
仕事柄あまりにもよくないと思い、一昨日、ラインニュースのブロックを解除した。
今日、仕事の帰り道、不注意運転でひき殺された警察官のニュースを見た。何メートルも宙をとんで、即死だったらしい。奥さんがいて、子供がいる人だったらしい。何も手につかない。朝と晩が交互に来るだけの日々になったと書いてあった。本当に本当に大切な存在だったと書いてあった。
いったい何を思えばいいのか。
私が生きていたあの日にこんな経験をした人がいるということ、彼らが今この瞬間も生きているであろうということ、あったはずのものがなくなったこと、二度と戻らないこと、そんな悲劇が私にとっては完全なる他人事であるということ。そう、私は今ここで健やかなのだ。
いったい何を思えばいいのか。
悲しいニュースなんだろうかこれは。怒るニュースなんだろうかこれは。社会問題だ、厳罰規定を作らねばとかなんとか思えばいいんだろうか。大変な思いをしている人がいるから自分は頑張らねばとか思えばいいんだろうか。そんなに思いめぐらせずに、流し読めばいいんだろうか。
こんな、たった数行の記事で、わかりたくもないことがわかりすぎるくらいわかり、同時に全く何もわからないのだ。

悲しいニュースだからとかそういうことではない。
どこまでも他者の物語でしかないということ、その事実の凄絶さに、絶句する以外の身の振り方がわからない。
わからないなりにみんな、それぞれやっている。それぞれやるしかない。この話には結論も着地点もない。
こんなのは当たり前の事実だが、当たり前の事実ほど驚くべきこともないのもまた事実である。

今更驚くようなことでもないだろうに。
絶句の数秒後、そうやって携帯の画面を消す、ああ、我ながらくたびれたシーツのような感受性である。

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