読書推進について思うこと

常々思っている。
私自身は読書に抵抗のない人間だけれども、読書推進という言葉が好きになれない。というか嫌いである。

読書が大事でないと言っているわけではない。
読書は大切だ。だが、「推進」するほどのことかといつも思う。
活字離れが騒がれて久しいが、いつの時代も読む人は読むし読まない人は読まない。読まれる本は読まれるのだし、読まれない本は読まれない。読みたい人は読む。それでいいんじゃなかろうか。というか、いいとか悪いとかじゃなく、そうでしかありえないのじゃなかろうか。
それで滅びるならば、厳しいけれどその程度の文化だったということだ。
愛書家の一端としてその未来は切なく、私は最後まで紙の本を読み続けるつもりだが、やはり結局はそうでしかありえないと心の底で思っている。

本の未来を完全に諦めていると思われそうだが、そんなことはない。
良著は読まれ続ける。これは歴史が証明している。
いかな文明が進歩し、脳みそがとろけるような娯楽が生まれようとも、宇宙旅行が普通になろうとも、世界戦争の果て人類が最期の一人になろうとも、読む人は必ず読む。時代なんぞ関係ない。良著は、本物の言葉は、その言葉に宿る精神性は、時代を超えて届くべき人に必ず届く。
私はこういう言葉の持つ力を100パーセント信頼している。そして、その言葉を感受する人間の精神を信頼したいと思っている。
どういうわけだか有史以来、私たちは脈々とその精神なるものを受け継いできた。数千年もの間、そうして読み継がれてきた本の力を、見くびっているのは私たちなのじゃないか。

時代が混迷を極めていると言われる。
混迷しているのは時代ではなく私たち自身であることに、気づいている人はどれくらいいるのだろう。きっと多くないからこそ、時代が混迷を極める、などという言い方がされるのだろう。
そんな時代に読むべき名著があると言うが、名著とは時代を問わないから名著なのである。
時代の要請がなくとも、「推進」されずとも、気づいている人はたった一人で気づいている。そして読むべき本を自ずから選んでいるはずである。
そういう人たちが、たとえ少なくとも、目立たずとも読み続ける限り、人類の歴史は本とともにあり続けるだろう。

耳をすませば、今日もどこかで誰かがそっとページを捲る音が聞こえてくる。
彼らの気配を感じればこそ、「推進」という言葉の空虚さを感じずにはいられないのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?