マルセルデュシャンのアート常識を覆した便器は本当に『アート』と呼べるのか?

マルセルデュシャンの泉という作品をご存じでしょうか??

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こちらの作品です。こちらの絵を見てどう感じたでしょうか

「これってアートなの?ただの便器じゃんwwww」
「これがアートなのは笑えるわ!!!レオナルドダヴィンチとかピカソをバカにしてるんじゃないの??」

と考える方がほとんどだと思います。またはこれと似たような考えを抱くかもしれませんね。

なぜ、私たちはこれを見たときアートとしてこれを認識しないのでしょうか。

私的な解釈で行くとこの理由は3つほど存在しております。

一つ目

一つ目の理由は、私たちの中でアートというものは、何かが描かれてあるものでなければならないという固定観念が存在しているからです。
通常、私たちが絵画というのがどのようなものかと尋ねられた時、すぐに考えられるの大きなキャンバスに書かれた絵画だと思います。
しかし、アートといわれるものの起源は絵を通して何かを伝えるというものです。宗教画の多くは文字を描けない人のために描かれたいわば伝達手段のようなものです。つまり、昔の人は絵を芸術や作品としてではなく、何かを伝えるための伝達手段として利用してきたのです。絵というのは必ずしも素晴らしいものが描かれているというわけではないです。
また、ピカソの有名なアビニョンの娘たちという絵をご存じでしょうか?こちらの作品は絵を使って、アートにしかできないことを伝えようとしています。ここで少し頭の良い人ならお気づきになると思われますが、感性だけではなく、視覚をしっかり使用して、思考をすることが出来るものなので。
アート=素晴らしい作品でなければならなという考えかたは≠に出来そうですね。

しかし、これだけではまだ腑に落ちないですよね。

二つ目

二つ目の理由は、自分で作ったもの、時間をかけて作った作品こそがアートであると考える人が多いからです。先ほど考えましたが、アートというものは何だろうと考えたときに、アートは思考をすることによってみるものというのは理解できると思います。しかし、ただ町中にある便器を取って、それにサインをし提出をしたものをアートとして、考えていいのだろうか?と考える人が多いと思います。特に昔の宗教画やそこから続く様々な作品を見たとき、計り知れない製作時間と個人の思考を感じさせます。そして、そのことにより、われわれは無意識のうちに頭の中で、絵画というのは時間をかけて作られていなければならないものと刷り込まれているのです。その結果人はそ自分の価値観に沿わない泉という作品を無意識のうちにアートの枠組みから外そうと考えます。しかし、絵というものが思考のために用いられるとするなら、その思考を使って絵を鑑賞し、頭の中にあるキャンバスに筆を落とす行為そのものがアートといえるのかもしれません。

ここまでで考えからは少し変わりましたでしょうか?


三つ目

最後に三つ目の理由です。三つ目の理由は、アート作品を見たときに、そもそも思考をしないことに問題があるからだと考えています。私が美術館を訪れた際、ほとんどの人はその場所をたったの10秒程度で離れてしまいます。しかし、その後印象に残った作品を聞くと、ほとんどの人が目玉作品をこたえると思いますし、理由を聞かれると何となく素晴らしい作品であったからという風になると思います。しかし、実はそこにこそ、落とし穴があるのです。先ほど絵は思考を使って捉えるものと記したと思います。アート作品が本当の意味で完成する瞬間というのは、画家の方が絵を描き終えた瞬間ではなく、アート作品が出来上がる瞬間、人が絵画に語り掛け、自分なりの価値観や考え方を見出した時、初めてそこにアート作品というものは誕生します。そして、この考えるというプロセスが『泉』というただの便器に、作品としての命の息吹を吹き込むのです。

つまり、マルセルデュシャンは、絵画としてのキャンバスに描かれた完成形を、視覚から脳内に移行させたのです。これが私なりのマルセルデュシャンの泉に対する考え方で、私の価値観のものさしです。

まとめ

私がマルセルデュシャンの作品を紹介してしたかったことは、今ある社会常識や社会通念というのは本当にただしいのかということを考えさせるきっかけを与えたかったのです。アートというのは様々な視点を与えてくれます。考えるきっかけ、思考するきっかけを与えてくれます。
こちらからの記事を読んで絵画が気になったよーという人はぜひお近くの美術館に訪れてみてください。

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