『僕たち日本人の排他性と見立ての文化』 〜彼らを日本人として見立てられるか〜
僕たちにはハロウィン・クリスマス・大晦日の並びがあって、そのせいで外国人や異なる文化に対して鷹揚な民族だと言われるけれど、全然そんな事はないと思う。決して来るもの拒まずではなく、来る者もてなし 取るもの選ぶ。それが僕たち。やっぱり排他的な島国 日本。
それともう一つ、僕たちには見立てて楽しむという文化がある。
ないものをあるとして楽しむのだ。マンガもアニメも、嘘を信じて楽しむものだし、ないものをあると思い込める力がなければ没入できない。
実写ドラマと比べれば明らかにリアリティの低い世界でも、それを難なく信じられる。
これが見立ての文化、その現代の姿。
ではないと思う。
もちろん「たまたま見つけたコレがアレに似てるね!」「あははホントだね!」でもない。
例えば、よく挙げられる枯山水にしても、わざわざ山や川を表現するなら、もっとあからさまに土を盛って、あいた溝に水を流せば、きっともっと山らしい盛り上がりと川らしい水の流れができるけど、それをやってしまうと、そこに山と川ができてしまう。「よくできた山だねぇ」「よくできた川だねぇ」で終わってしまう。
そうではなくて「ここには山があります」「川の流れはこんな感じです」「こっちの山はこんな形です」みたいな、最小限の枠組みだけに留めて、相手に自分の中のイデアを楽しんでもらう事こそが枯山水の醍醐味なんだと思う。
つまり見立ての文化とは嘘を信じて楽しむものではなくて、存在しない理想を楽しむためのものなのだ。
そこから派生して嘘を信じ込む力が強まったのか、そもそも嘘を信じやすい民族だったのか、それは知らないけれど……。
共通のフィクションを皆で共有できているというのは物凄く強い仲間意識を生み、その代わりに嘘を共有できない人との間に一線できてしまう。
理想を追い求める職人も、「あの子は俺の嫁」と豪語できるオタクも、やっぱりどちらも日本人で、理解できない理想には一線引いてしまうのも日本人。
だから これから先、本当に全てがグローバル化しなければならないというのなら、僕たちは外国人を日本人として見立てなければならない。
でなければ彼らとの間に引いた線は絶対に消せない。
カタコトの日本語なんて気にもとめず、彼らの日本人より日本人らしい部分を探して注目して、同じ日本人として接さなければならない。
オタクにも職人にもなれずにいる僕には、たぶん そんな事はできない。
記事を書く事自体を目的にして書き始めたので、文章や内容そのものは拙く陳腐ですが、どうぞ一級品のそれと見立ててお楽しみください。そのためのあらすじぐらいは通っていると思っています。
よろしくお願いします。
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