はないちもんめで奪い合われたい人生だった

 はないちもんめとは、江戸時代の市井の様子を描いたわらべ歌で、銀一匁の花をめぐって繰り広げられる値下げバトルである。
 諸説あるが、花を女性の隠語とし、人身売買をうたっているともされている。歌詞にある「勝った」「負けた」は、「買った」「(値段を)まけた」とも捉えられる。

 我々が親しんでいるのは、校庭の隅で営まれるゲームであろう。
 2陣営に分かれ、歌いながら近づいてキック、後退りしてキック。堂々巡りになったところ、突如「相談しよう」という鶴の一声。これを皮切りに会議が行われ、誰か1人ずつを指名し合う。選ばれし者がじゃんけんで勝ち負けを決め、敗者はあっけなく勝者側の陣営に寝返る。この一連の流れを全員がどちらかに吸収されきるまで繰り返す、または設けた制限時間で人数が多いサイドが勝利というルールだ。

 要するに人気者の奪い合いゲームじゃないか。あの子が欲しいランキングの上位の人間が、じゃんけんして行ったり来たりするだけ。選ばれない人間は、ただ同じ陣営で、近づいてキック、後退りしてキック。運動のジャンルでいうとシャトルランと一緒か。早く指名されたいと憂いながら、ここに来ない言い訳をする隣のおばさんに「ちょっと来ておくれ」と説得し続けないといけない。

 どうしてこんなゲームが地域ごとのオリジナルリリックに変化してまで遍く遊ばれているんだ。
 保育関係のサイトを見てみると、まんべんなく全員を指名し合うことで、思いやりの心や集団における協調性を育む意図があるんだそうだ。言いたいことはわかる。だが所詮は机上の空論だ。「時給上がって嬉しい」などとご陽気ではいられない。


 ルールに責任を転嫁しながらここまで書いてしまった。ここから考えた個人的な人間関係について語りたかっただけなのに。

 私は今まで、多くの友人に囲まれて生きてきた。ありがたいことに、誰か遊びに誘うこともあるし誘われることもある、思い出も割と充実している。
 ただ、いつも同じ人たちと一緒にいるとか、どこかの仲良しグループに属す、といった経験がない。好きなものが同じであったり、目的が一致したりした時に誘われるという感じだ。誰かと2人で遊ぶことがある一方、2回目に自分だけがいないこともある。
 良く言えば「誰とでも仲が良い」だが、それはつまり「誰とでも特別な仲ではない」ということだ。誰からも指名がありそうで、いの一番に名前が上がることはない。はないちもんめで奪い合われるには、深く強い人間関係が必要なのだ。私にはそれがない。

 話は逸れるが、私には「親友」という存在がいたことがない。正確に言えば、誰かを「私の親友です」と紹介したことやされたことがない。
 仲の良さが他に比べ抜き出ている=親友だとするならば、当てはまる友人もいる。ただ、「私たち親友だから」と自他ともに明言している人たちとは、何か定義が異なる気がするのだ。どちらかが、親友になってくれないかとお願いするものなのだろうか。
1.「これはもう、仲良しの域を超えている、言うなればそう、親友だ!」と思う
2.『親友とお呼びしてもいいですか』と相互確認する
というプロセスを踏む以外ないんじゃないか。感覚的に親友だと思っても、相手がその枠に自分を入れていない可能性を考えると、確認なしでは迂闊に親友とは言い出せない。


 1対1じゃ恥ずかしいから仲間と相談して確認したい。「あの子が親友に欲しい」と、はないちもんめのようにチームの総意として表明したい。表明さえできれば、残すはじゃんけんのみである。

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