現代版四姉妹に感じたモヤモヤ 映画「ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語」 #351
小説の映画化につきものの、ワクワクとドキドキ。期待を越えてくるのか、裏切られるのか。
「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」を観ての、今の気持ちは「うーん」でありました。
<あらすじ>
南北戦争時代。父親不在のマーチ家では、母と四姉妹が暮らしていた。最初で最後の贅沢なパーティーに胸を躍らせるメグ、隣家のローリーと親しくなるジョー、貧しい家庭のお手伝いに行って熱を出すベス、ジョーについて回るエイミー。7年後、彼女たちの生活は一変していて……。
小説の方は読んだことがある人も多いと思います。上のあらすじでは、『若草物語』の一番有名な第一巻を書きましたが、映画自体は7年後のシーンから始まります。
出版社を訪れたジョーは、“友人”の書いた小説を編集者に見せ、採用の通知をもらいます。うれしさのあまり、走り出すジョー。
中のパッチが丸見えや!!
周囲を歩いているのは、黒のフロックコートにシルクハットをかぶったおじさんばかり。この時代、髪を結い上げた女性が全力疾走するなんてなかったのだと思います。これだけでもジョーが「はみ出した」女性なのだと分かる。秀逸なオープニングでした。
一方でメグは、双子を育てながら貧乏暮らしをしていて、生活に疲れた主婦に。
構成が時系列ではなく、子ども時代と現在が行ったり来たりしながら話が進んでいくので、最初はえ? ええ!?となるかも。
「若草物語」はこれまでにも何度か映画化されています。有名なのは1949年のマーヴィン・ルロイ監督版か、1994年のジリアン・アームストロング監督版なのかな。
1994年版は、とにかくウィノナ・ライダーがかわいかった。
わたしが違和感を持ったのは、タイトルだったのかもしれません。
“わたしの”って、誰やねん?
たぶん、原作を書いたルイーザ・メイ・オルコットであり、今回の映画の脚本と監督を担当したグレタ・ガーウィグなのでしょう。
その“わたしの”感が強くてのれない……。
グレタ・ガーウィグ監督の作品に共通する「挫折感」は、今作にも現われていて、四姉妹共に、何かに挫折しています。個性も考え方も違う姉妹、それぞれの選択が尊重されているのですが、どうにもモゾモゾする。なぜだろうと考えていて、ようやく設定そのものなのだと気がつきました。
これって、「白人の物語」なんですね。
父親は戦争に行って不在。じゃあママは「ワンオペ」でさぞかし忙しいのだろうと思ったら、慈善活動をがんばっている。家に5人も女がいるのに、家政婦さんまでいる。困った時に助けてくれるお金持ちの隣人も。
女性が経済的に自立するのが難しく、「自分らしく」生きるなんて選択肢がそもそも存在しない時代の話です。娘たちの選択を無条件に励ましてくれる母は聖母そのもの。
子どものころから親しんできた物語ですが、いま観ると「うーん」となる部分があり、そこを現代的にした結果、監督にとっての“わたしの”感を強く受けたのかもしれません。
あと、観たタイミングが黒人の解放運動家を描いた「ハリエット」の後だったので、ほぼ同時代なのに「自分らしく」生きたいという設定がつらかった。同じ女性が主人公なのに、「ハリエット」の方は、「人間として扱ってくれ!」という物語なんですよ。
フェミニストとして知られるエマ・ワトソンが、「結婚が幸せ」と考えるメグを演じるのもリスキーだったでしょうね。まさか生活に疲れたメグが「貧乏な生活にうんざりなの!」なんて言うとは。
ヒロインが美少年のプロポーズを断ってでも、自分の道を目指さなきゃいけないって、現代は「どっちも」という選択肢があるようにも思います。
どっちにしても、ティモシー・シャラメに告白されて舞い上がらない女なんているのか、ジョー! なのに結局、文無しの男を選んでしまうって。
姉と同じように「貧乏な生活にうんざりなの!」なんて言ってしまうのかしら。それとも「わたしが稼いでやる!」なのかしら。
オルコット自身は、生涯結婚しなかったそうです……。
とりあえずとても言いたいことがあって。
末っ子エイミーを演じたフローレンス・ピューは、お花を頭にのっけないで!
「ミッドサマー」の衝撃がよみがえってしまう。
(画像はIMDbより)
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