アイラブユー

「I love you」を伝えたかったユキコとの思い出

地下鉄を降りて地上に出ると、セミの鳴き声がウワーッと迫ってきた。近年、聞いたことがないほどのセミの鳴き声。まだ朝の9時にもならないというのに、福岡一の繁華街でこんなにうるさく鳴くなんて。

猛暑日の予報が出ている中、わたしと友人Hは早朝の飛行機で東京を発ち、福岡にやって来た。ここから西鉄に乗って向かう先は、友人ユキコのお墓だ。

享年49歳。

早すぎる別れを受け止められないまま3か月近くを過ごし、ようやく決心した旅だった。


ユキコと出会って20年近くになる。
年齢が近いこともあり親しくなったわけだが、地方から東京に出てきた者同士だからこそ通じるものがあったのだと思う。

淋しさを自由を愛する態度で覆おうとするところや、仕事へのプライド。結婚という制度に対する疑問を持っていたところも、母親と距離を置きたいと願うところも共通していた。権力に対する嫌悪も、社会的活動に興味があることも似ていた。

つまり、わたしたちは親友と呼べる間柄だったのだと思う。

その後、わたしは結婚したが、ユキコはずっと独身だった。それでも付き合いは変わらなかった。ユキコの部屋で居候を始めた友人Hとともに、たくさんの時間を過ごした。


わたしが夫とケンカして家出した時は、ユキコのマンションに逗留させてもらった。
ユキコがブラック会社を辞めようとした時は、わたしが辞表を代筆した。
わたしが「これ、行きたいな」と何気なく呟いたライブのチケットは、ユキコが手に入れてくれた。
ユキコが欲しがっていたティアラは、誕生日にわたしと友人Hがプレゼントした。
わたしが内面の充実という名のひきこもり生活を送っていた時、唯一の話し相手はユキコだった。
ユキコが腹筋を鍛えて“ヘソピアス”をしたいと言い出した時、合気道の道場に誘ったのはわたしだった。でも、これはちょっとズレていたかもしれない。

ケンカもした。泣きもした。躍った。歌った。引っ越しした。皆既日食を見に行った。お花見をした。ドーナツを食べた。カレーを食べた。チーズフォンデュを作った。ビーフシチューを作った。こたつを買った。自転車を買った。花火をした。花火を見た。

数えきれないほどの経験を、ユキコと友人Hと一緒にした。

わたしたち三人は、いつも無条件に助け合える関係だった。


2017年の12月のことだった。仕事中はLINEを見ないはずのユキコからメッセージが届いた。

「ガンが発覚したので、明日検査します。付き添いが必要なので、一緒に行ってほしい」

確かに、ここのところ「疲れた」を繰り返して寝てばかりだったし、「一度病院に行ってみるね」とは言っていたけれど、なんかいろんなものを飛び越して、いきなり「ガン」とは何事なのか。頑固で人の話を聞かないユキコのことだ。また何か勘違いをしているのではないのか。検査もなしに「ガン」ってなに?

たった一通のメッセージがわたしたちの日常を灰色にし、その日からユキコのカウントダウンが始まった。


検査の後、絶食していたためお腹が空いたというユキコに何が食べたいか聞くと、即答で「ステーキ!」と答え、あっという間に全部食べた。

こんなに食欲旺盛で元気な人が、ガンって? 信じられない気持ちでお医者さまからもらった診断書と手書きの治療説明書を読みながら、手が震えないように気をつけていたことを覚えている。

すい臓がん。ステージIV。肝臓と肺への転移。

そんな文字が目に入り、目の前が真っ暗になった。「余命については聞かなかった」というユキコ。「ネット検索は止めた方がいいって言われたから見ないことにしてるの」という言葉を聞きながら、わたし自身はネットで情報を漁ったことを激しく後悔する。ステージと転移の状況から考えて、状況は……。


考えたくない。


恐ろしすぎる現実に向き合う勇気も心の準備もできておらず、バカ話をしてさんざんユキコを笑わせ、マンションまで送っていった。帰り道、地下鉄の階段で立っていられなくなり、しゃがみこんで大声で泣いた。その後、報告のために友人Hと会い、また号泣した。

翌日、入院したユキコは、抗ガン剤治療を始めた。12月25日。クリスマスの日だった。

「こんなクリスマスプレゼントですみません」

この頃はまだ、担当医とそんな冗談を交わす余裕もあった。治療の後は髪が抜けると聞かされていたので、あらかじめベリーショートにするよう薦めるわたしたちも、まだ希望を持っていた。

年が明けて退院したユキコは仕事にも復帰し、予想したほどの体調不良はないと言いつつ、味覚が変わったのか安物は食べられないと言い出した。料理をする体力はないだろうからと、レトルトの高級スープやフルーツを差し入れし、外食する時はファミレスよりもちょっと高めのお店に入るようにした。

「ひと口ぐらいしか食べられない」と言いながら、肉好きなところは変わらずで、おいしそうにステーキを食べてくれるとホッとした。

再び入院したのは4月の下旬だった。福岡から弟さんが呼ばれ、医師から病状説明を受ける。黄疸がひどく、抗ガン剤を続けることができないとのこと。ゴールデンウィークの最終日、見舞いに行ってみると、ガリガリに痩せたユキコは、それでも笑っていた。お腹と脚がプックリとむくんだ状態を見れば、知識のないわたしにも状況は察せられた。

意味不明なLINEのメッセージ。かみ合わない会話。ゼェゼェと息を切らす様子。

覚悟を決めなければいけないのかもしれない。

でも、わたしも友人Hも、現実に向き合うことが恐ろしくて恐ろしくて、なにもできなかった。病室を出た途端に涙ぐむ友人Hを励まし、「まだあかん。もうちょっと、外に出てから」と声をかけ合ってエレベーターに乗る。目が回ってエレベーターのボタンが押せない。「1」が見えない。病院の外に出てから二人で泣いた。


あんなにたくさんの時間を過ごしたけれど、わたしはユキコになにをしてあげられたのだろう。ユキコが幸せに感じるようなことをしてあげられたのだろうか。ユキコの不安を和らげるようなことができたのだろうか。わたしは、なにを?

考えても、考えても、答えはでない。もう、ユキコのためにできることがないかもしれないと思うことがつらくて苦しくて、なにも手につかなかった。
とりあえず、「退院する時に着る服がない」というユキコのために、赤いワンピースを買った。ユキコの好きな赤、そしてスレンダーな体型に似合いそうで、渡す日を当面の楽しみとすることにした。


その頃、通っていたライターゼミの課題提出が重なっていた。そのひとつが「I love youを今の自分の言葉で訳す」というものだった。

いま、わたしが「I love you」を伝えたい相手はユキコしかいない。でも、どう訳せばいいのか。100個以上もコピーもどきを並べてみたけれど、ピンと来るものがない。頭の中にあるのは苦しそうに笑うユキコの姿だけだった。

結局、提出日の朝、目覚めた瞬間に浮かんだ言葉を課題として提出した。それが、これ。

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後日、ゼミの場で「せっかくの強い経験を、もう少し一般化した言葉で語れたらよかったですね」というフィードバックをいただき、本当にその通りだと思った。

そしてたぶんこの頃からだったのだと思う。もっとちゃんと、人の心に届くものを作りたいと思うようになった。

なぜなら、わたしの「I love you」は届かなかったからだ。


課題を提出した日の夜、ユキコは旅立った。


仏教では、亡くなってから七日ごとに「お裁き」が行われ、極楽浄土に行けるかどうか決まる。その日が四十九日目なのだそうだ。ユキコはわたしたちに挨拶もなく逝ってしまったけれど、そしてそのことに無性に腹が立ったのだけれど、それなりにわたしたちにメッセージを送っていたのかもしれないと思う出来事があった。

友人Hの場合。
とにかく「食べたい」が止まらない。しかも、高級なものが食べたいと言う。仕事終わりに友人Hに誘われて行ったお寿司屋さんは最高においしかったが、計算書を見て鼻血が出そうになった。

わたしの場合。
とにかく「ショッピング」が止まらない。普段、そんなに買い物するタイプではないのに、高級ブランドのバッグまで買ってしまい、翌月のカードの請求書は30万円を超えた。

でも、四十九日を境に、わたしたちの病気はピタリと治まった。どちらも、ユキコがやりたくてもやれなかったことだったもんねと、二人で笑い、泣いた。

これ以上太れないわたしには「物欲」を、金欠状態の友人Hには「食欲」を、という気遣いなのかなんなのかよく分からない配慮が、とてもユキコらしかった。


一方で、ユキコのお母さんが心配だった。でも、ユキコはちゃんとお母さんにもメッセージを届けていた。

亡くなる前日。
急いで上京したお母さんを前に、初めて「死にたくない」と泣いたそうだ。
反発し続けたお母さんに、「抱きしめて」と言ったらしい。

そして、「お母さん、大好きよ」と伝えたという。

初めて「許された」と感じたと、泣きながらお母さんは語っていた。最期に和解してくれたことを知り、わたしも泣いた。

病院の霊安室で見たユキコは少し笑っているように見えた。お母さんと一緒に、赤いワンピースを着せた。最後に大きな赤いバラの花束を持たせて送りだした。


8月最初の週末。
新盆を前にようやく、わたしと友人Hは墓参りのために福岡を訪れた。

文字通り、雲ひとつない青空の下、お母さんと一緒にお墓を掃除し、ユキコの大好きだった赤ワインをお供えした。強い日差しが照りつけ、墓石がジリジリと焼けていた。水をかけたしりから乾いていく。暑い夏が好きだったユキコらしい天気だった。でも、お参りに来た人にはつらいよと話しかけた。

「来るのが遅くなってごめんね」

「でも、来たくなかった気持ちも分かってほしい」

「最後の最後に、お母さんに見つからないようにと頼まれた例の荷物は、わたしがまだ持ってるよ」

「スマホは弟さんがうまく処理してくれたから、安心してね」

「それにしても、友達に骨を拾わせるなんて、冗談じゃないよ」

「二度とやらないからね。わたしは本当に怒ってるよ」

「わたしたちがあなたを“オバケ”と呼んでいたことは、お母さんにはバレてないみたいだよ」

愛を込めて“オバケ”と呼んでいた友人ユキコに話したいことは山ほどあったけれど、横にお母さんがいるので心の中でそっと文句を言った。

ワーンワーンとセミが鳴いている。「クェッ、クェッ」という正体不明の動物の鳴き声も聞こえた。「猿……ですかね?」という弟さんの説明を聞きながら、そういえばユキコは申年だったと思い出した。酔っ払ったユキコの笑い声に似ている気もしたが、さすがにお母さんには言えなかった。


平成最後の夏。ユキコのいない夏。今年はことさら暑い夏。でも、もうユキコはこの暑さを感じることはない。いや、存分に味わっているのかもしれない。この、見晴らしのいい山の上で。永遠に。

ユキコ、ありがとう。

ユキコ、またね。

次に来た時は、いっぱい文句言わせてね。

わたしたちを“娘”と呼んでくれるお母さんとユキコに会いに、また旅するよ。

青い青い空と真っ白な薄雲の上を飛ぶ飛行機の窓から、ユキコにさよならを告げた。


今でも時々考える。わたしはユキコになにをしてあげられたのだろう。大切な友人を失ったことで、ひとつ分かったことがある。

人間が自分以外の誰かのためにしてあげられる一番のことは、「I love you」と「Thank you」を伝えることだと。


どうか。あなたの一番大切な人に。あなたの側にいる人に。

伝えてください。


「I love you, thank you」と。

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