あおいさんとつっきーの話②
一人暮らしを始めたのは、都心の大学に行くため実家を出てからだった。守月にとってそれは自由の序章であったが、同時にあたたかな朝の終局でもあった。
ひんやりとした空気は、涼しくなったからと窓を開けて寝ていたから。防犯上よくないことは知っているが、田舎の実家では窓を開けて寝るのは普通だった。
今日だけだよ、と言い訳をして久しぶりにエアコンから吹き出るものとは違う心地の良い空気は、良い眠りを与えてくれた。
「おはよ」
誰もいない部屋の中で響く自分の声だけを聴く。
父親に徹底された「おはよう」の言葉は、一人暮らしになっても抜けなかった。届ける相手はいない。
味わった孤独と寂しさに、一人暮らし当初はそっと実家に電話を掛けたものだ。母親は笑いもせずに「おはよう」と返してくれた。
一人暮らしを始めて、就職して、八年もの年月を重ねれば薄れると思ったその寂しさは、ふとした季節の変わり目に、その温度差とおもに肌身に刺さった。
肌をさすれば寒さをたたえたざらざらとした感触が返ってくる。なるほど寒いわけだわ、と窓を閉めて、毎日のルーティーンを開始する。今日も会社が待っている。
回る換気扇、ぱちぱちと焼けるソーセージ、ケトルがぐらぐらと湧く。
朝の演奏会の合間に、ピロンと小さな着信音が混じる。
トースターが不満げに数秒遅れてチンッと締めの音を奏でた。
行儀悪くたったままソーセージを口につまんで、間の悪い音を立てたスマートフォンを開けば、守月はにんまりと口元を緩ませた。
『おはよ』
簡素で簡潔な挨拶が表示される。
続いて眠たげな猫のスタンプがやってきて、にやけは最高潮となった。
「おはよう、いい朝だね」
嫌味たっぷりに返したその挨拶に、返事は帰ってこなかった。挨拶一つだけ送って、送り主は今頃大急ぎで朝の準備中だろう。
「葵も俺にならされちゃって」
付き合い始めた当初、毎日「おはよう」と送り続け、返事を返してもらっていた。
連絡不精の彼女に、できるだけ連絡という手段で自分の存在を感じてほしくて、コミュニケーションの一環だよと言い訳がましく習慣を強要した。その実、ただ自分の毎朝の寂しさを埋めてもらおうと思っただけだ。
けれどどうだろう。気が付けば彼女から挨拶がやってくる。
眠りに意地汚い葵が、それでも毎朝挨拶をくれることの愛情を、守月はちゃんとわかっている。
「今日も頑張りますか」
トーストには葵が買ってくれたイチゴジャムを。インスタントのコーヒーを淹れれば、朝日が差し込み始めた小さな座卓にそれを慣れべて一人きりの朝ごはんを始めた。