「おやすみなさい、またあした」出版しました!
作品の紹介
仕事と育児の両立に奮闘する美咲。プロジェクトリーダーの座を降りることになり、落胆した彼女は帰宅を躊躇う。偶然立ち寄った喫茶店で出会った一杯の珈琲と店主の優しさが、彼女の心を解きほぐしていく。家族への愛、仕事への情熱、そして自分自身との向き合い方。都会の喧騒の中で見つけた小さな癒しが、美咲に新たな一歩を踏み出す勇気を与える。
仕事と家庭の狭間で揺れる現代女性の心情を繊細に描いた、心温まる物語となっています!
冒頭サンプル
煮詰まった珈琲の匂いが鼻を突いて、美咲はぼんやりと歩いていた自分の失態に気がついた。いつもなら駅までの近道であるこのルートを避けるはずなのに、一本前の交差点を曲がり損ねていた。
目の前にある小さな商店の店頭、店番をする老婆がニコニコと趣味である珈琲を客に振る舞っている。美咲は一度味わい、もう二度と飲みたくないと思っていた。朝や昼はまだいい。だが夕方はだめだった。保温をされ続けたその酸っぱさを思い出すだけで、胃の奥がきゅっと縮まる。避けるため、例え帰りの電車を一本遅らせてでも遠回りをしていたというのに。
小さく息を吸って止める。この数十メートルをなんとか乗り越えられればいいと、意を決して一歩踏み出す。しかし、店のちょうど前を通りかかったときに鳴った着信音により、あっけなく徒労に終わった。
スマホ画面に映る、健太、と飾り気もなく表示された夫の名前。小さく息を飲み、酸っぱさが強くなった濃い珈琲の匂いが鼻の奥を突き刺す。言い知れぬ気持ち悪さがこみ上げ、胃のあたりを押さえる。匂いのせいか、それとも焦りのせいかわからない。慌てて応答を押すとスマホを耳に当てた。
「ごめんっ、陸のお迎え――」
『お疲れ。大丈夫、連絡無かったから俺が行ってるよ』
声の合間に、息子である陸の泣き声がする。「おか~さんがよかった~」と所々聞こえる悲鳴のような叫び。腕時計を見て、十九時を回っている事にようやく気がつく。今朝、息子を保育園に預けるときに約束していたお迎えの時間を、一時間もオーバーしていた。
『久しぶりの出社だったから、忙しかったんだろ?遅くなりそう? 』
夫の気遣いが、胃をさらに重たくさせる。
仕事は先ほど終わった。会社の最寄り駅に向かう途中だ。頑張れば三十分もかからず自宅に帰ることができるだろう。すぐに帰るからね、と言えばいい。
けれど、その言葉が全然口から出てこなかった。
「……うん、ごめん。まだ遅くなりそうだから、陸とご飯食べて、お風呂入って、寝かしつけまでしてもらって、いい? 」
『オッケー、大丈夫。美咲も根詰めすぎないように』
「ありがとう。――――また帰るとき連絡する」
おかーさん!という泣き声とともに鈍くぶつかる音がして、スマホの通話は途切れた。陸が健太のスマホを奪おうとして、落ちてしまったのかもしれない。
通話終了の文字を残して暗くなったスマホの画面。一分それを凝視して、再びかかってくることがないことを確認し、美咲は鞄の奥底にしまい込んだ。
嘘をついた。合わす顔がなかった。帰りたくなかった。
酸っぱい珈琲の臭いがさらに美咲を追い詰める。そこから逃げるように、美咲はつやを失ったパンプスのつま先を見つめたまま駅へ重い足を進めた。
帰宅ラッシュを少し過ぎた駅のホームは、いつもよりも人が少なかった。それでもひっきりなしに電車がやってきて、人々はその中に吸い込まれていく。
ちょうど目の前で、いつも乗り込む電車が発車する。それを見届けて、美咲は振り返った。対向車、自宅とは反対側に向かう路線。そこにちょうど警笛を鳴らしながら電車が滑り込んできた。
扉が開いた途端に人があふれ出し、すぐに列をなしていた人たちが乗車していく。その中に美咲も入った。迷いなく扉の横を陣取れば、目的地も確認していない電車が発車した。
『プロジェクトリーダーを外れてもらおうと思っている』
今朝出社して、上司に呼び出され告げられた言葉が、未だに生々しく耳にこびりついて離れないでいる。そのとき美咲は頷くしかなかった。
事実だけを受け取って、慌ただしい引き継ぎをした。実感もなく、気遣う同僚の言葉に大丈夫だと答えた気がするけれど定かではない。会社から出た瞬間、何もかも手からこぼれ落ちてしまったことに、気がついた。
そして大切な息子との約束さえ、美咲は取りこぼし、逃げ出した。
真っ暗な車窓に、くっきりと自分の顔が浮かぶ。崩れた化粧さえ直すこともできない疲れ切った女の顔が、闇夜に反射してこちらを睨み付けていた。
作者
榎下結美です。よろしくお願いします。
小説はちまちまと20年近く書いておりますが、ちゃんとキャラを作り書いたことは今回が初めてです。
物語の作ることの難しさ、楽しさ、世界を作ることの素晴らしさを、文字の中から伝えることができたらなと思っています。
Kindle出版にて販売中
kindle unlimitedにて二月まで無料で読むことができます。
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