朱殷
何故闇に眠る。
なぜ人は暗闇に身を休めるか。幼き頃、毎晩のように考えていた。当時の私は暗闇が怖かった。灯は私の視界を、私の世界を優しく包み込み、道を照らしてくれた。リビングには照明が灯っていて、それはすなわち父か母かがそこにいるという証であり、姿が見つからないときは大抵、他の灯に吸い込まれるように恐恐と足を進めると、そこにはやはり誰よりも見慣れた顔があって、不安も恐怖も霧散する。意識せずとも、そんな光景が余りにも救いとなっていた。しかしその光明と表裏一体に、暗闇は狂いなく訪れる。何故態々人は灯を消して眠りにつくのだろう。何故人間の身体はそのように設計されているのか。純粋な疑問ではない、一種の抗議の意思を込めて、布団の中で忌々しく天井を睨む。段々と眼が闇に慣れてくると、代わりに漆黒とは異なる恐怖が顕現する。今まで見えなかったものが見え始めることは必ずしも良いことではない。盲目であることが身を救うこともあるという真理に、思考が追い付かなくとも私を構成する生は気付いていた。故に無理にでも眠ろうとする。意に反して醒めてゆく神経を必死に殺す。次に起きたときには闇は過ぎ去って、世界は明るく包まれる。そう言い聞かせて、眠る。
再度問う。何故闇に眠る。頭蓋に響く声に微睡から覚める。まだ夜。重い橙の灯る部屋は起き抜けには丁度良い。嫌に汗ばんだ身体を起こすと、眩暈とも言われぬ浮遊感に一瞬襲われる。三面鏡の台に置かれたペットボトルを手に取り潤いを得る。懐かしい記憶。今の私とはまるで対極にある存在。あてつけのような悪夢は、まるでガムの味のしなくなるように薄れてゆく。
暗闇は良い。余計なものを見ずに済む。人は五感から過剰に情報を受理している。意識の内で処理し切れないそれらは己を殺す。その身に余るという言葉の通り、きっと人間は身体に触れる分の情報だけ受け取っていればよい。回りくどい言葉も、極彩色の絵画も、不要。闇の中は最適で、必然的に、身体で触れ得る最低限のものだけを認識できる。苦悩は要らない。ただその身のままに生きれば良い。
光は苦痛だ。朝が来ることは単に時間の浪費を意味するだけである。変わるも映えるもない一日を再び繰り返す輪廻の帰納的証明である。光の射す場所には不気味な熱気が存在する。外面と言葉で姿を偽る道化が集まり、「明るい社会」をつくっている。大気は嫌に多湿で、息が詰まる。光には影が付随する。外界からの光は、私の内に潜む影を露顕させる。人々の影も広がって、斑の世界を形成する。故に光は毒であり、最低限に留めねばならない。
後ろを振り返る。橙の灯の先、ついさっきまで私が眠っていた隣には、容易く壊れてしまいそうな愛しい横顔。昔のように、灯の中には私を守ってくれる存在はいない。家族も、正しく心を委ねられる者もいない。ただ自身の寂しさを埋めるためだけの人形と寄り添って生きる他ない。人形は人とは対等になり得ない。嫌というほどに、これまでの人生で思い知らされてきた。故に私という人形もまた他の人形に依り付くしかない。どれだけ耽美な言葉で表現しようと試みたところでその事実は変わらない。どれ程愛し合っても満たされないのは、きっとそういうことだから。
カーテンを開ける。窓には誰よりも見知った、この世で一番憎い姿が映る。黒と透明が合わさり鏡が生まれる。闇に空虚を見つめれば、己の姿に絶望する。それが酷く苦しくて、一切の光を排除したくて、しかし人間という種が滅びぬ限り、あらゆる社会の枠が瓦解せぬ限り、完全な闇は生まれない。この部屋の灯を消したところで、私の眼には不明瞭にも無表情で眠るこの子の顔が映ってしまうだろう。この世界には、仮初の逃げ道はきっと存在しない。
そろそろ頃合いかもしれないな。そう思って、鞄からピルケースを取り出す。毎日のように目にした、しかし試したことはなかったタブレットを2錠手に取り、ベッドへ向かう。彼女の名を呼ぶ。一瞬眉間に皺を寄せて目を開く彼女に覆い被さるようにして、整った顔を覗き込む。怪訝そうな表情を浮かべる美しい人形。吸い込まれるような白い肌も、羨むほど柔らかな輪郭も、全てが歪ながら確かに愛したその者だ。つい頬が緩んでしまう。応えるように、彼女も笑みを浮かべて私の背中に手を伸ばす。引き寄せられるようにして彼女の首筋に顔を埋め、さっきまで愛し合っていたときと同じように甘く噛み付くと、彼女は目を細めて身を捩り、微かに鳴く。私は自分の口元に手を寄せ、タブレットを含んでから顔を上げる。彼女の髪に指を撫ぜ通し、仄暗く澄んだ瞳を覗き込みながら優しく接吻ける。刹那、混ざり合う。綺麗な貴女には、きっと紅が似合う。だから、一緒に。
目が見開かれる。瞬間、光は歪み、泡沫の音とともに冥い海の底へ沈んでいく。