芋出し画像

☀


昚幎の3月11日にギリギリ絞り出した蚀葉はこれだった。東日本倧震灜から今幎で12幎、かれこれ10幎以䞊たずたらない気持ちを抱えおきたこずになる。
就職掻動をしおいたら、吊応無しに震灜ず向き合うこずになった。毎日毎日吐きそうになりながら自分の人生を振り返っおいたら、ずっず蚀葉にできずにいたこずを少しず぀噛み砕くこずができるようになっおきたので、12幎経っおやっずチャレンゞ。
ただたずたるかわからないけれど、それでも曞き始めおみたす。


地震が起きたずき、わたしは宮城県の気仙沌垂ずいうずころに䜏んでいた。
小孊校2幎生だったわたしは1人で䞋校䞭で、歩道橋のいちばん高いずころを歩いおいるずきに地震が起きた。立っおいられない揺れにたず思ったこずは「死ぬかも」倧袈裟だよね、でも8歳だもの、ちょうど道路を挟んだ向こうの土地で老人ホヌムの建蚭工事をしおいお、そこにいる䜜業員の人に助けを求めた。5人の倧人が揺れのさなか道路を走っお枡っおきおくれお、わたしを抱えお歩道橋を降りおくれたこずに感動した芚えがある。
真䞋にあった亀番に預けられたわたしは、そのたたお巡りさんにパトカヌでおじいちゃんの家に送っおもらった。その日はたたたた父芪が有䌑消化のために家にいたのに、地震の衝撃でそのこずを忘れ、い぀も通りおじいちゃんの家に垰っおしたった。圓時䜏んでいた家ずおじいちゃんの家は埒歩5分くらいの距離。
おじいちゃんの家に行くず家の䞭は空き巣ずいうレベルでぐちゃぐちゃ、壁に食っおいた倧きな絵も萜ちお、食噚も割れ、挠然ず最悪だな、ず思ったのを芚えおいる。
すごく寒い日で、片付けながらストヌブを぀けるも䜙震で䜕床もその火が消える、ずいうのを繰り返しおいた。
やけに萜ち着いたおじいちゃんに「接波が来るよ」ず蚀われ、わたしは2階の窓からすぐ近くの海を芋おいた。
知っおいる家の屋根がスヌッず流れおいくずころを芋おも、接波を芋おも、なお萜ち着いおいられたのは、その衝撃的な景色が珟実的なものではなかったからだず思う。
海は近いけれど高さのある堎所に家があったから、わたしずおじいちゃんは避難しなかった。そうこうしおいるうちにおばあちゃんが垰宅、父芪合流、叔父合流。姉は䞭孊生で孊校にいたため、そのたた避難所である䞭孊校に埅機。母芪は圓時喫茶店で働いおいお、姉を迎えに䞭孊校に寄っおから垰宅。党員集合。
本棚の片付け䞭、萜䞋しおきた挫画を片しながら読み返しおいるうちに倢䞭になっおしたったわたし、こんなずきに胜倩気すぎるず怒られたのをよく芚えおいる。
ものすごく寒い倜だった。雪が降っおいお、すこし離れた街の方では火事で空が真っ赀になっおいお、わたしはその色ばかりを芚えおいる。
4月に入るたで電気も氎道もない䞭で生掻した気がするが、正盎あたり芚えおいない。震灜圓日のこずはやけに鮮明に芚えおいるけれど、埌の生掻の蚘憶はすっぜり抜け萜ちおいお、もうそのあずは倏くらいからの蚘憶しかない。
党郚嘘みたいで、電気がないから日が昇ったら起き、沈んだら寝る生掻。
どんなものを食べたかずか、どんなふうに暮らしたかずかは本圓に、党然芚えおない。
ただ珟実味のない時間だったこずしか、もう思い出せない。

わたしにずっお真に苊しかったのは、その埌である。
わたしは家族も家も倱わなかった。䜕床も「䞍幞䞭の幞いだったね」ず蚀われた。わたしもそう思う。本圓にラッキヌだったず思う。ラッキヌだったからこそ、わたしは被灜者ではなかった。
あの時期、あの地域においおは、家族も家も無事であるこずはすなわち、被灜者ではないこずを意味した、ず、わたしは思っおいる。䜕も倱っおいないお前に被灜者を名乗る資栌はない、ずいう空気で満ちおいた。幌いわたしが感じるほど、である。幌かったからこそ、そう感じたのかもしれない。
日本党囜から励たしの声が届く。支揎物資も届く。小孊校に届く支揎物資を、孊校偎は平等に配垃するしかなくお、各家庭の被害状況によらずみんな同じように物資が配られる。
被灜しおないのにもらうのずるいね
ず蚀われたずき、
ああわたしは被灜しおいないんだ、ず思った。
䞍幞の床合いに順䜍など぀けられないけれど、家族のうち䜕人死んだずか家が有るかないかずか、わかりやすく目に芋える被害があったからこそ、いちばん䞍幞な人以倖に蟛いずは蚀わせないぞずいう、そういう空気があった。
先日この話を母にしたら、子䟛のほうがそういうの残酷よね、ず蚀われ、灜害が子䟛の粟神に䞎えるダメヌゞを痛感した。蟛い子は、蟛いず声に出すこずでしか報われない。
䜕も倱わなかったわたしはあの堎においお被灜者ではなかったので、小孊校3幎生から高校を卒業するたで、わたしは被灜者を名乗らなかった。蟛いず蚀っおはいけないんだ、ず思ったから、わたしは䜕のダメヌゞもありたせんず蚀うしかなかったし、そういうものだず受け入れおいたからそこに嫌な気持ちも抵抗もなかった。
単玔に、わたしは被灜しおないのだずいうこずを、事実ずしお受け取っおいた。

被灜者を名乗っおはいけない、ず無意識のうちに刷り蟌たれたおかげで、気付けばわたしは地震なんお怖くないもヌん慣れちゃったずいうカスムヌブをする子䟛になっおいた。
䜙蚈なこずは蚀わないほうがいいず察し孊んだわたしは、䞭孊生くらいから「ずにかく震灜の話題に必芁以䞊に自分から螏み蟌たない」を培底しおいた。
「震灜倧䞈倫だった」ず聞かれないようにするために、出身地を仙台ず蚀うようにしたり(仙台で暮らし始めたのは䞭孊生からで、震灜ずたったく関係ない理由で家族みんなでお匕越しをしたした)、
先回りしお「うちは被害れロなんですよ」ずか蚀ったりしおいた。

事が䞀倉したのは震灜から11幎が経った去幎の3月。
2022幎3月16日の倜にたた地震が起きた。
仙台垂内の実家にいたずきのこずである。
あのずきだけはい぀もみたいに平気なふりができなくお、垃団のなかで過呌吞になりながら号泣した。
いわゆるフラッシュバックで、䞀日経っおもダメだった。
劙に東日本倧震灜の揺れ方に䌌おたよね、ずか蚀っお誀魔化しながら、自分が平垞心を保おおいない事が信じられなくお怖かった。

そこからのわたしは本圓におかしくお、
町田CLASSIXに向かう暪浜線の電車の音ず揺れに耐えられず息が苊しくなっお途䞭で降りたり、
床ごず揺れるタむプのラむブハりスで気持ち悪くなったり、
長机に長怅子の倧きな講矩宀で受ける授業で、埌ろの垭の人が消しゎムを䜿っお䌝わっおきた揺れで䞍安になっお授業を抜けたりしおいた。
もちろん地震は本圓にダメで、ひずり暮らしを始めおからはどんなに小さな揺れでも呌吞がしづらくなっおしたった。
地震が起きるず、その日はもう䞊手くやれない。

埌出しみたいでキモいけど、普段のラむブで、奜きなバンドに出順を教えおもらっおその時間に間に合うように行っお終わったらすぐ垰っおくるのもここに理由がある。教える手間をかけさせおる自芚はあったけれど、倧きな音ず揺れが時ずしお䞀瞬で心身の調子を悪くさせるから、なるべく滞圚時間を短くするために、自衛の぀もりでそうしおいた。
適圓な理由぀けおすぐ垰るのは(実際孊業で忙しかったのもあるけれど、)倒れたくないから。
倧奜きなみんなに迷惑をかけたくないし、ダサいずころを芋せたくないから。

2幎の秋に倧孊で取ったメンタルヘルスの授業で、担圓しおいた粟神科医の先生が、阪神淡路倧震灜から10幎埌にPTSDを発症した女性の話を玹介しおくださった。その症状がわたしず党く䞀緒で、なんずなく肩の荷が降りた感じがした。
震灜盎埌に平気だったものが10幎以䞊経っお突然苊手になるこずはあるのか、なぜこうなっおしたったのかず悶々ず考えおきたけれど、10幎経っおから症状が出るのはよくあるこずだずいう。
このずき先生が玹介しおくださった本を読み、
わたしはもしかしお、きちんず灜害で傷぀いおいるのではないか、ず初めお思った。

ずっず蟛いずも蚀わせおもらえなかった。
こう蚀うずあたりにも他責のニュアンスが匷くお嫌になるが、わたし自身が蟛いず蚀えない状況を遞択しおきた。
自分以倖の家族が党員死んでしたった、ずいう話も倚い。そんななか、家も家族も無事だったわたしが䜕を蚀う䜕を蚀っおもわたし以䞊に蟛い人が五䞇ずいるのである。
わたしを远い詰めおいたのは、わたしの芖野を狭めおいたのは、他でもないわたしでしかなくお、それでもどこか他責的な感芚を捚おきれなかった結果が10幎越しのPTSDである。溜めおきた分がこのザマだ。堪えおきたものは、絶察にどこかで壊れおしたう。解き攟぀手段を遞んでいれば良かったのだ。


わたしの呚りは、みんな奇跡の䞭で生き存えた。
芪の職堎は接波で流されおいる。もし職堎にいたら垰らぬ人になっおいた。父は1/365の確率で有絊、母は普段䜿っおいる道路を垰っおきたら間違いなく死んでいた。姉だっお孊校にいたから助かった。
みんなギリギリでなんずか生きおいただけなのだ。

わたしはよく倧切な人に「死なないでね」ず蚀う。
みんな倧袈裟だず笑うけれど、わたしはい぀も本心で蚀っおいる。倧事な人に死んでほしくない。
もし倧切な人が苊しくお死にたくおも、もしそうするのが本人にずっおの正解だったずしおも、わたしは死んでほしくない。
もっず蚀えば、倧切な人の倧切な人にも生きおいおほしい。愛する人を倱っお絶望に満ちた顔をする人たちを、わたしはもう芋たくない。
みんなが絶望しおいる空間、その空気は本圓に、本圓に苊しくおたたらない。


灜害で呜を萜ずす人を1人でも少なくするこずが、わたしの倢である。
灜害で䜕かを倱うこずの遣る瀬無さを考えたずき、挠然ず灜害発生時に倱うものの芏暡を最小限にできたらいいなず思った。
少しでも倚くの人が生きおいたらいいなず思った。
わたしにしか䌝えられないこずがあるずは思っおいない。そんな玠敵な䜿呜感はなくお、ただすこしでも状況を良くしたいず思っおいるだけである。

そのためには治さなくおはいけない症状もたくさんある。考え方もきっずいたは偏っおいる。
よく考えれば、絶察に向いおいないのである。
それでも、次にたた灜害が起きたずきに、ただ無機質な報道を眺めるのはもっず耐えられないず思う。
苊しいし、向いおないし、諊めるなら諊めたほうが早いし幞せなのはわかっおいる。それでもなお、諊めるこずも離れるこずもできない。

家も家族も無事だった。
党お倱った人からすれば、被灜しおないくせに利甚しおいるず思われるず思う。その通りだず思う。
そこにはもう、反論の䜙地などなくっお、わたしは耐えるしかない。
必芁なのは蚀い蚳でなく芚悟である。

か぀おアナりンススクヌルの同期に「被灜者っお絶察印象に残るもんね、就掻のネタずしお匷いよね」ず蚀われたこずがある。
被灜者ではないず蚀い続けおきながら、面接で灜害の話をしお、同期からは被灜者だず思われおいる。
わたしはずっず、被灜したっお蚀えなかったよ、なんお䌝わるはずもなく、ただ悲しかった。

就職掻動をするなかで出䌚った人の蚀葉が忘れられない。

わたしがいた目指しおいる職皮に憧れを持ったのは3歳のころで、震灜がきっかけだったわけではないんです、灜害はその倢を持った状態で経隓しお䌝えたいず思ったこずで埌付けみたいなものだし、わたしは䜕も倱っおないから埌ろめたい気持ちも吊定できないんです、ずお話をしたずきのこず。

あなたは䌝える仕事に早くから興味を持っお、その状態で震灜を経隓した。この業界で生かせる経隓をしたこずは、蚀葉を遞ばずに蚀えば運呜的なこずで、さらにあなたがあの被害の倧きかった地域で生き残ったこずは特別なこずだったんだず思うよ。䌝えるべきこずがあったからだね。


わたしが目指しおいる職業の第䞀線で掻躍されおいる方のこの蚀葉に、勇気をもらった。


被灜地出身ではあるけれど、今埌も被灜者ですずは蚀えない。蚀わない。
できるだけ倚くの人に喪倱感を味わっお欲しくないずいう気持ちで生きおいるし、その気持ちで倢を远っおいる。
わたしのような立堎の人間に被灜者を名乗っおほしくないひずたちが間違いなく䞀定数いお、わたしが人のためを思うなら、その人たちの気持ちを尊重したい。

被灜者ではないけれど、生たれ故郷も育ちも間違いなく被灜地である。
あの地で生たれ育ち、震灜を経隓し、再生のプロセスをこの目で芋おきた。
わたしにしか䌝えられないこずなどないけれど、わたしが感じおきたものや芋おきたものは絶察に揺るがなくお、わたしが䌝えたいず思うこずにはい぀も100%の自信を持っおいたい。

面倒なこずに巻き蟌たれたくない、責められたくない、傷぀けたくない、そう思っおずっず明蚀を避けおきたし、深く考えないようにしおきた。
就職掻動をするなかで、やっず声に出しお
「灜害に関わる仕事がしたいです」
ず蚀えるようになり、生半可な気持ちではやれない以䞊、ずこずん自分の人生ず気持ちず、党おず向き合っお、やっずこうしお文章にできた。
気持ちず向き合うたでに12幎かかった。
8歳だったわたしも、20歳になっおいる。
考えるこずはただただ尜きなくお、やるべきこずもたくさんあっお、それが終わるこずはないけれど、考えるこずを攟棄するこずがわたしを苊しくさせおきたこずがわかった以䞊、ここから先は逃げるこずなく真っ盎ぐ向き合いたい。
誠心誠意向き合い、嘘のない良い蚀葉を䜿っお、この子の蚀葉を信じたいず思っおもらえるように、ただひたむきでありたい。

ここで文章に起こしたこずで、13幎目はきっず䜕かが倉わるず思う。奜転させられるかどうかはわたしの努力次第だけれど、地に足を぀けお、絶察に苊しさから逃げない、たっすぐなわたしでいられるこずは、もう間違いないず信じおいる。

2023.3.11

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