書評:『昨日までの世界(下)』(ジャレド・ダイアモンド) その2:宗教とデンキウナギ

前から続く

続いては、宗教の話。どうも、西洋人が話す宗教というのは、日本人にとってはどうでもいい話になるので、いっつも食傷気味である。うえってなる話題なのだが、まあ、また読まなくて良いように、ある程度書いておく。西洋人の宗教の話の中ではまあまあ面白い方だった。どうでもいいけど。

宗教とは何かの話

ええと、ここは本の話から入らない。私の勝手な話から始める。

私は常々、日本人の宗教は「ドラえもん」だと思っている。これは、おそらく西洋人に日本人の宗教観を伝えるにはもっとも正しいものいいであると思っている。

日本人には西洋人のいう宗教がないので(仏教や儒学は西洋でいうと哲学らしいしw)、聖書の内容など真面目に知っている人は少ないだろう。「旧約聖書など、ハリーポッターと同じである」というのは、ホモ・サピエンス全史のハラリさんのコメントである。マリアさまの処女妊娠を本気で信じることからキリスト教は始まっており、西洋人はプロテスタント・カソリックの違いはあれど、キリスト教徒である。そして、旧約聖書は、ユダヤ教の経典であるし、イスラム教の経典でもある。全知全能の絶対神を信じる人たちなんですよね、BC0年ぐらいのローマ帝国以外は。

私はかつて日本書紀を漫画で読んで、「なんて馬鹿馬鹿しい話だろう」と思ったのだが、聖書の内容も似たようなものである。それは、ハリーポッターであるので、それが、ドラえもんでもいいだろうという話である。

旧約聖書に比べてみると、ドラえもんの方が、いささか科学に寄り添っている内容である。日本人は、ドラえもんが聖書なので、ダーウィンの進化論も信じるし、恐竜の存在をノアの箱舟とは関係なく認める。そして、日本人の宗教の聖地は、国立科学博物館である。

と、ふざけて見るぐらいに、日本人にとって宗教というのはどうでも良いものであるので、西洋人であるダイアモンドさんが、なんで真剣に宗教の話をするのか、理解ができない。

で、ダイアモンドさんは真面目に、宗教の役割と効能について分析する。

宗教の定義が最初にあるが、ここが日本人には理解できない。
その5つの要素が次である。

「超越的存在についての信念の存在」
「信者を形成する社会的集団の存在」
「信仰に基づく活動の証の存在」
「個人の行動の規範となる実践的な教義の存在」
「超越的存在の力が働き、世俗生活に影響を及ぼし得るという信念の存在」

超越的存在は、スーパーナチュラルである。一神教の絶対神が前提になっちゃっているあたりがもう、ずれている。色々な仏様がいたり、先祖の写真に祈りを捧げちゃったり、恵比寿様とか色々な間抜けな神様がいてそれを愛する日本人には全く受け入れられない。もう、日本人が信じているものが、宗教の範囲に入れてもらえないのである。

日本人にとってスーパーナチュラルを信じているのは間抜けなことである。例えば、「超越的な存在の麻原彰晃が、何かによって座禅を組んで浮いている。麻原彰晃万歳」というオウム真理教がこの宗教の定義にバッチリ当てはまるのだと思うのだが、それは日本人にとって迷惑な存在であり、そんなものを信じている人は、社会の害悪でしかないと思われている。

むしろ、超越的な神の存在などは信じていないが、「13回忌を実施して、お坊さんに意味のわからんお経をあげてもらって、なんとなくスッキリ」というのが日本人の慣習であるので、これは、西洋人から見たら宗教ではない。

そんな日本人には縁のない宗教は5000年前からあったそうだ。600万年前にホモ・サピエンスが生まれてから、599万年以上はなかった。

宗教はなんのためにあるのか。

さてさて。

デンキウナギと変わる宗教の役割

デンキウナギは、600Vの高電圧で痺れさせて、獲物をとる。

しかし、いきなり突然変異でうなぎが600Vの高電圧を発する能力を得ることはないので、弱電力の発電能力は無用の賜物である。そんな能力は身につけるはずはないという話が進化生物学であったそうだ。

よくよく調べていくと、次のような進化だそうだ。

1:魚には電気のセンサーがついていて、これで獲物が探せる。
2:弱電を発して、自分の近くに電場を作ることで、このセンサーを強くでき、獲物をよりよく見つけられる
3:やがて魚が電気を使って意思疎通をするようになる
4:電圧が強くなった小魚を痺れさせる
5:強くなって、馬での殺せるデンキウナギになる

最初、最後の目的とは違う目的で使われていた機関が、その用途を変えて進化していくということはよくある。これが、デンキウナギの進化の実際であるという。ビジネスでいうところのイノベーションなどは、ほとんどこれであるので、デンキウナギの進化については、そういうものであろう。実際にデンキウナギがいるんだし。

これと同じように宗教の役割も変遷してきただろうというのが、ダイアモンドさんの主張である。

その最初が、「1:説明を提供するという機能」だそうだ。昔は科学がないので、病気になった理由を探すがわからない。わからないものを宗教で説明する。「病気の原因は、神の思し召し」ということになると、意味がわかるので、ちょっと気楽になる。気楽になるのが、次の役割である。

「2:不安の軽減」。まあ、何もできない時、教会に行ってお祈りをしている方が、何もしないよりは不安が減るということ。疫病が流行った時、ミサイルやロケット砲がいっぱい飛んでくるとき。何もしようがないときに、人はお経を唱えたりすると落ち着く。それは、落ち着かないよりは良いという話。

狩りに行くときに、獲物が取れるか取れないかわからない。わからないけど、神のお告げがあって出るというから行くとなると、気休めになるし、勇気が湧いて狩りに行ける。

「3:癒しの提供」。先ほどのミサイルの時のお経も癒しであるし、人が死んじゃったときに、儀式をすると癒される。「オタクの息子さんは無残にも戦争で死にましたがそこには意味がありません」と言われるよりは、その息子の死に意味がある方が癒される。「たとえそれが真実であるとしても、それは私が求める答えではない。私はそれを信じない。科学に意味を求めることが無意味なら、私はそれを宗教に求めたい」。

「4:組織と服従」。このあたりからは、ローマ帝国亡き後のローマ帝国の悪事と繋がってくる。支配層が生産をせず、生産する農民に寄生するのが組織と服従である。その寄生先の農民たちに服従させるために、宗教を使う。あれこれ、こういうことだから、黙って食料を差し出しなさい、というのが宗教の役割である。農耕社会になって、余剰食糧が出てきたから、大規模な組織と中央集権、こういうのが宗教を利用して、農民を服従させるのに使われるようになってきた。

5:見知らぬ他人に対する行動規範」。やがて、都市化してくると、見知らぬ人が増える。この人を部族社会のようにいちいち殺しているようでは、都市が成り立たない。このような他人への行動規範を制定するのに、宗教が役に立つらしい。同じキリスト教徒だからいい人、助け合おうね、ということで、仲良くできるということか。

6:戦争の正当化」。あいつは異教徒だから殺せというやつ。部族社会では、部外者は常に殺すので、戦争で人を殺すのにジレンマはなかった。しかし、キリスト教などの社会では、隣人愛なのに、戦争で他人を殺さねばならない。ジレンマである。このジレンマの解消に宗教が使われる。「殺してはならない」と行って育てられた人が「このような状況では殺さなくてはならない」と教えられるので、混乱する。宗教には、自分の宗派は正しいが、他宗派デタラメとするのが多い。だから、異教徒なら殺して良いロジックとなる。これが、戦争をするのに都合が良い。

7:忠誠の証」。宗教には無駄が多い。たとえば、お布施をするというのは、個人としては無駄である。でも、その無駄をしているということが、その宗教を信じているという証明になる。同じ宗教を信じている人は安全ということになっているから、この無駄なことをしていることが、忠誠の証となって、同胞として受け入れられる。

なんか、ビットコインの採掘みたいだ。ビットコインの採掘は、電気資源の無駄でしかない。ひたすら、何の役にも立たない暗号を電気資源を使ってコンピューターに解かせることで、本物である認証をしているのが、ビットコインのブロックチェーンの仕組みであるが、宗教行事という無駄に時間を費やしていることに、信頼の証、認証を与える効果があるらしい。

と、宗教の役割は、デンキウナギと同じくだんだんと変遷してきたそうだ。

結局、戦争の道具に使われ、戦争しないための証明書に使われているのが、宗教ということか。

ダイアモンドさんは、これらの役割の衰退と繁栄を描いている。

衰退しているのが、「1:説明を提供するという機能」。
微減なのが、「2:不安の軽減」
中世には「4:組織と服従」6:戦争の正当化」がいいように使われ、同時に「5:見知らぬ他人に対する行動規範」が平和に貢献した。

全般的に宗教の役割は1600年以降は弱まっているそうだ。

感想

冒頭にも書いたが、西洋人の宗教の話は辟易する。ただ、その役割が、段階的に変化してきたことはよく分かるし、納得のいく説明である。

ただ、その役割を並べてみると、思うところがある。

1:説明を提供するという機能
2:不安の軽減
3:癒しの提供
4:組織と服従
5:見知らぬ他人に対する行動規範
6:戦争の正当化
7:忠誠の証

たとえば、無宗教のヨガやピラティスであっても、1:説明を提供するという機能、2:不安の軽減、3:癒しの提供ぐらいは提供できてしまう。

スーパーナチュラルなき、孔子様の儒教であっても、4:組織と服従、
5:見知らぬ他人に対する行動規範あたりは提供されている。

残る宗教の役割といえば、6:戦争の正当化、7:忠誠の証であり、第二次世界大戦で多くの人が死んで資産を失った日本人には、6:戦争の正当化はいらないし(もしくは戦争経験者が生きていた平成まではいらなかった)、比較的単一民族の人数比率の多い日本では、7:忠誠の証は、日本語を話すだけでよかった気がする。

西洋的な定義における宗教は、やっぱり日本人にはいらないし、「お地蔵さんや先祖を崇拝するのは幼稚だ」という西洋人の幼稚な考え方(ノアの箱舟を信じながら、ダーウィンの進化論や遺伝子組換えを活用する姿勢)は、日本人には受け入れ難いから、宗教の話題は辟易するのだなと思いつつ、「まあ、こういう風に西洋人は考えるのね、神様と宗教には触れないでおこう」と毎度思うのであった。

宗教より、デンキウナギの話がためになった。

続く





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