書評:『ポスト資本主義社会』(PFドラッカー)
社会について書かれた本。本来、社会科の勉強においては、こういうことを教えて欲しい。世界の歴史、こと近代史についての意味ある解説本として捉えると、この本は良いと思う。
我々は、資本主義に生きていると思っている。その割に、資本主義について知らない。ドラッカーは、歴史を紐解く。鉄鋼王などがいた時代の資本主義は、「少数の大金持ちによって、会社という生産財が寡占されていた時代」である。鉄鋼王カーネギー、石油王ロックフェラーなど少数の人が、世の中の株式の多くを持っていて、世界経済に大きな影響を与えたのが、少数資本家による「資本主義」である。
1980年ぐらいには、従業員資本主義(年金基金社会主義からドラッカーが言い直した)に移行しており、多くの株式は従業員が間接的に保有している。すなわち、従業員が払っている年金が持つ資産である「年金基金」がファンドマネジャーに資産運用を委託し、株式の保有と売買を繰り返している。結果、従業員が上場企業の過半の株式を持っているとのこと。だから、現代では、鉄鋼王や石油王は、かつてのような経済への影響力を持っていない。
日本で言えば、三井三菱と言った財閥が資本家だったのだろう。明治時代、大正時代には財閥が多くの影響力を持っていたのだろうが、平成のこの世では、一部領域でちょっと強い企業にすぎず、経済の中での影響力は限定的だ。財閥の意向で日本経済が動くこともない。同じく、ウォーレン・バフェットが風邪を引いても世界経済は風邪をひかない。それが、ビルゲイツであろうが、ザッカーバーグであろうが関係ない。グーグルは大統領選挙でクリントンに肩入れしたけれども、トランプが大統領になった。大企業のオーナー社長といえ、社会への影響力は(かつてに比べれば)大したことはない。
1980年ぐらいまでは、「鉄鋼王型の資本主義社会」の続きであった。これが、20世紀末から急激に変わった。変わった先にはまだ名前がなく、「ポストモダン主義社会」とこの時点でドラッカーは呼んでいる。今ドラッカーが生きていたら、違う名前に更新しただろう。
かつての「鉄鋼王型の資本主義社会」では、鉄鋼所という大きな設備投資ができるのは一部の資本家のみであった。かつての製造業は大きな設備を持つことで競争力が保持できた。カーネギーやロックフェラーのような大きなお金を持つお金持ちが、大きな設備投資を打つことでどんどん金持ちになっていく、というのが、本来的意味での「資本主義」である。現在においては、IaaSの世界でAWSのamazon, GCPのgoogle, AzureのMicrosoftが大規模な設備投資でクラウドの世界を寡占するぐらいのことは起きているが、基本、大きな資本や設備投資が競争力に繋がる時代ではない(三井財閥グループの三井物産・三井住友カード・三井不動産がファッションモールの通販事業をやっても、ゾゾタウンに勝てる気がしない)。
では、今の社会は何で収益が決まるかというと、知識であるとドラッカーはいう。現代風な例を取れば、動いているソフトウェア・データ・その解析を統合した知識の集大成たるITサービスであろう。google, amazon, facebookのどれもこれに当たる。
製造業も、製造設備はEMSにアウトソースされておりで、設計が重要である。Appleは製造設備を持たない。社員の知識やその集積たるソフトウェアが製造業であるAppleの強さである。
という新しい社会への移行を、ドラッカーは過去に予言していた。この本である。ドラッカーは未来の予言というよりも現実の観察者であり、過去の歴史と現在を見比べて、予兆をよく捉える。彼にとっては、すでに起きつつあることを発見して解説しただけである。
このような資本主義社会からの変遷の中で、企業という組織がどう変わらないければいけないのか、がこの本では説かれている。その中の一つがマネジメントという技術である。代表的なのは、階層の少ない組織構造である。
鉄鋼王型のゾンビ企業は未だ日本経済界や産業政策で幅を利かせつつ、近年、破綻しつつある。品質を偽造していた神戸製鋼、不正会計をしていて唯一の世界的な事業だった半導体事業を売却した東芝、MRJを作りきれない三菱重工と、21世紀に入り、次々に変わりきれないゾンビ企業の問題が表面化し、不正が明るみに出ている。その組織構造、マネジメントが時代遅れであることが、このパートを読むと良くわかる。
知識社会(googleみたいなソフトウェア社会と読み替えるとわかりやすい)においては、軍隊型の多階層の組織構造は機能しない。中間管理職も基本意味ない。科学としてマネジメントが米国にはあり、欧州にもあり、シンガポールにはあるが、伝統的な日本企業にはない(伝統的日本企業では「マネジメント」=「科学」ではなく、未だ「マネジメント」=「ボス」である)。一部の新興企業にはマネジメントはある。
ここまでが、この本の前半の「社会」の話。
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後半は、「政治」について書かれている。
まず、経済学について書かれている。私もマクロ経済について学んだが、これは今日機能していない。なぜかというと、マクロ経済は、国ごとに経済を見るが、今の経済は世界経済なる国境のないものがあり、国を全部足しても、世界にならないからである。世界経済があった上で、個別の経済がある。個別の経済も、国境を超えたグローバル企業の存在がある。それらは国境を超えるので、国ごとに見るマクロ経済学は機能しなくなってしまった。新しい経済学は、この本の執筆時点ではないそうだ。
次に、社会主義、共産主義の終わりである。鉄鋼王による資本の寡占たる過去の資本主義社会への対抗からマルクス主義は出てきた。しかし、その問題は、年金基金の登場により、現在の従業員資本主義たる年金基金社会主義により解消されてしまった。また、「全体計画を立てることが社会の最適化を生む」という全体主義は役に立たないことが証明されたのが20世紀で、もはや社会主義は、「共産党による独裁」のみを示すことになってしまった(確かに、ロシアのプーチン、中国の習近平、北朝鮮の金正恩をみても、社会主義的な平等はなく、あるのは独裁的な資本主義社会だけである)。
社会のグローバル化が進む中で、個人のアイデンティティを求めるためにナショナリズムが高揚することもドラッカーは予測していた。日本共創基盤(IGPI)の社長たる冨山氏が解説するような「グローバリズムvs ローカリズム」という解説は多分嘘で、「グローバル社会という基盤の上に、ナショナリズムという動きが多層化して乗っているのが現状だ」とドラッカーは言う。現象としては、「イタリアに行こうが、中国に行こうが、米国に行こうが、東京にいようが、ZARAがあって、ユニクロがあって、P&Gの消費財が売っていて、街の変わりばえがしない」と言うのが、グローバル社会という基盤。その上で踊るナショナリズムを煽る極右政党が流行っているにすぎないのだろう。
トランプ大統領がやっていることは、「製造業など、グローバル企業が、製造ノウハウをどこの国の工場で実現するかでしかないんだから、中国とかメキシコで作ってんじゃなくて米国で作れよ」ということなので、グローバル企業やグローバル社会を否定しているわけではない。グローバル企業の上にナショナリズムを乗せているだけだ(グローバル化の否定であれば、グローバル企業であるシーメンスを解体し米国での営業をやめさせるはずだが、そうはならない)。
あとは、「大きな政府による社会的弱者の救済が終わった」とドラッカーは言っている。共産党と社会党の終わりである。政府組織は、実行部隊としての生産性がものすごく低い。それは、「始めたらやめられない」という政府組織の構造にある。だから、政府は、定期的に民間から良い政策実行者を選定して、予算をつけることに集中すべきであるという。だから、大きな政府などいらない。という主張である。日本でも、社民党が絶滅寸前なのは、その主張たる「大きな政府」が有効でないことを賢明なる国民が理解しているからであろう。
現代において、社会問題を解決するのは、単一目的を持ったNPOやNGOであるという。これらの組織の中で、一番効率の良い組織に実務を任せることで、社会的弱者は救われるわけであり、大きな政府が国営で実行しても問題は解決しないよ、とドラッカーは言っている。
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最後に知識について言及している。教育について語っているに等しい。
人生100年の『ライフシフト』という本にある通り、人生長いので、人生の初期の教育が重要。でも、それは今までみたいに小学校から大学院まで直行で行って、さらに博士になって、大手製造業の研究所に就職というのではなくて、早いところ社会に出てから、また大学で学び直す、大学院で学び直す、ということが、知識社会では必要ということである。また、企業の中で学習という機能を持つことの重要性を歌っている。確かに、真っ当な企業は研修がちゃんとしている。
日本ではソフトウェア技術者が足りないだなんだと騒いでいるが、これを少子高齢化の中、学校の補助金を出して20代に期待するのは無理がある。そうではなくて、例えば、子供を3人持った有能な失業者が、補助金で生活費をもらって、再度大学に4年間通って、サイバーセキュリティの専門家になって引っ張りだこで就職する、というような政策が望ましいのであろう。
そう言った意味で、日本の過去の教育政策を紐解いてみると、正しいことをやったのは小泉政権ぐらいのものである。竹中平蔵氏の元で、再就職支援というのをやった。業績の悪い企業に人を切らせて業績を立て直させ、補助金で失業者に教育を与えた。
鉄鋼王時代のゾンビ企業を補助金で生き残らせて挙げ句の果てに、品質偽装してた日本クオリティの神戸製鋼さんとか、歴代の経団連を取り仕切っていた東芝さんが、不正会計をしてても東証の上場廃止にならず「一体カネボウはなんだっただ」という金融庁であるとか、「Industrie4.0で製造業復活だ」とか言って、終わった産業である製造業に大量の補助金をつけている鉄鋼王時代の頭が抜け切らないMETIの経済政策などは、終わっているわけだ。むしろ、傾斜配分すべきは、(多少問題はあるにせよ)メルカリみたいなグローバルで競争力がある企業であるわけで、それらを太らせて、そういう雇用を厚くしていかないと日本経済は浮かばれない。警視庁もメルカリをいじめて上場させないんじゃなくて、メルカリのデータを活用して、協力して、悪い人たちを退治するという政策が、例えば望ましいと思う。
というわけで、与党・野党の皆さまも含め、ポストモダン主義社会にふさわしい産業(例:ITサービス産業とか)をしっかり育成し、規制を正しく変えて、協力する産業政策をやってくれないもんかと、強く思いました。