書評:『昨日までの世界(下)』(ジャレド・ダイアモンド) その1:リスクとおしゃべりと飢餓について
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下巻に入りましたが、こちらもまだまだ面白い。
建設的なパラノイアの話
いわゆる心配性の話。建設的な心配性は、生きるためには必要という話が書いてある。色々話があったのだけれども、面白かったのは、島から島へのボートに乗ったら、無茶な運転をされて沈んでしまい、死にかけたという話。無茶する若者の乗ったボートに乗ったせいで、ひどい目にあったというのがダイアモンドさんの若い頃なのだが、無事に助けられて戻ってそんな話を地元の人にして見ると、以下のような反応。
「なんか、若くって無茶そうな奴が船渡しの仕事してて、あぶなっかしーなーと思ってたんだよね。だから、私は見送って、次の船にした。」
起きる可能性が低くても、何かが起きた時に死ぬというリスクであって、そのリスクをとる回数が多い場合、確率的に行って、そのリスクを取りに行くべきではない。それを、伝統的な社会では当たり前のことであるという話。
他の例では、ある部族社会では、枯れた木(死んだ木)の下では寝ない。枯れた木が倒れてきて、死んでしまうということが、その社会ではよく起きるのだそう。木が倒れてくる確率はさほど高くないが、部族社会の人たちは、毎日森の中で寝ていて、木の下で寝ている。ので、1%でも100回やれば100%, 1000回やれば1000%で確実に死んでしまう。死を避けるためには、そういうリスクはとるべきではないという話。
ジャングルには危険がたくさんなので、そういう心配を色々しながら生きていかないとうまくいかない。という内容。
ここから感想。
振り返って見て、日本の社会で考えて見ると、やっぱり車の交通事故がこれに当たる。可能性はさほど高くないものの、横断歩道を待っていて車に突っ込まれる可能性はある程度ある。毎日、交通量の多い横断歩道を渡っているのであれば、車に突っ込まれないような位置で待つべきであるし、渡るときも信号と関係なく、左右をじっくり見ていないと怖いという話だろう。
東京に住んでいて、毒蛇に噛まれて死ぬ可能性はそれよりずっと低いし、毒蛇に会う確率が低い。また、フリークエントフライヤーでもない人が、たまにしか乗らない飛行機なのに、飛行機事故の心配をするのは馬鹿げているのである。
人間は、感覚的には、リスクの計算がちゃんとできない生き物なので、そこそこリスクを計算して生きていかないとねという話。部族社会の人は、建設的なパラノイア(心配性)で、よく起きる事故については防ぐ用心を常にしているという話でございました。
リスクとおしゃべり
私は雑談というものが苦手なのだが、まあ、部族社会を始め、伝統的な社会の人は、おしゃべりが大好きである。誰がどうした、どこに行って何を食べてどうしたなど、延々と話しているそうである。
でも、それは、リスク回避のための情報収拾であって、伝統的な社会においては極めて合理的な行為であるという話。食料の共有が安定しない社会においては、何がどこにあって、どれだけ食べられたのだとか、どこには毒蛇がいたのだという話であるとか、隣の村に侵入者が現れて、と行った部類の話は、生死を分ける情報である。
近代社会の都市部には、そういう生命の危険が少ないので、食料についてはあれこれおしゃべりする必要もないし、毒蛇の情報を集める必要はない。隣の村で戦争は起きていないし、殺人犯も街をうろうろしていることは稀である。
感想。
まあ、日本は平和なんですよね。
病気や怪我というリスクの大きさについて
日本で骨折をしたとして、一生涯障害を追うことは少ない。
日本で盲腸で死ぬということも滅多にない。
しかし、それは、骨折しても外科で適切な処置を受けて骨が変なふうにくっつかないからであるし、虫垂炎になっても病院に行って処置を受ければ破裂する前に対処できるからである。
ニューギニア高地ではそうはいかないらしく、骨折で一生涯障害を持って暮らさねばならぬこともあるし、虫垂炎になっても病院にたどり着く前に破裂してしまう。なので、骨折も虫垂炎も東京にいるのとは、リスクの大きさが違うのである。
伝染病においては、部族社会ではその理由が、ウイルスや病原菌であることがわかっていないから、「蜂蜜の食べ過ぎだ」とか「奴が呪いをかけたからだ」ということになってしまう。この辺りも、命を落とす原因になる。
現代社会でも理由不明な病気は多いし、癌にかかった人が、よくわからん民間療法を試して、切れば治る癌を切らずに、よくわからんものを食べて死んでいる人もいるから、これは笑えたことではないだろうという話。
餓死の話
食糧不足というので、先進国の人が死ぬことは少ない。部族社会だと、景気循環のように飢餓が起きるので、よくある話である。飢餓で死ぬと行っても色々で、実際は病気で死んでも、飢餓が元で抵抗力がなくなり、結果として病気で死ぬということもある。なので、飢餓は万病の元である。
食べ物を栽培していれば、その不作で飢餓に陥ることも度々である。
ここで紹介されているのが、飛び地の農地という話である。条件の違う複数の土地で、色々な作物を育てているのが、部族社会の農業であるらしい。近代農業からすると、効率が悪いので、先進国の農学者などは、「飛び地を整理して、一箇所で一つの作物を作れば、生産性が上がって、飢餓がなくなる」という指導をするが、これが飛んだ勘違いで、部族を飢餓に陥らせるという話である。
天候は変わるので、十分にリスクを分散させておかねばならない。農地Aがダメなら、農地B、サツマイモがダメならじゃがいも、というように、作物も農地も十分に分散させていれば、農作物の全滅はない。農作物の全滅がなければ、飢餓で死ぬことはなく、貧しくともどうにか生き抜ける。
一方、農地も作物も集中した場合、3年はいいかもしれないが、4年目に天候が変わったり、作物が病気にかかったりすれば、農作物はゼロである。たちまち、そこに住む部族は飢餓で絶滅してしまう。
のであるから、目的が生き延びること、であれば、数学的、確率論的に行って、農地は飛び地で分散させ、多くの作物を育てる方が、生き残るために正しいという結論になるという話。
ここから感想。
途中で、「あー」と思ってしまったのは、私が企業戦略の専門家であったからである。ポーターあたりを読んでいると(注:私はポーターは好きだけどね)、「選択と集中」というのが出てきて、素人ほど、投資対効果の高い事業に集中して投資せよ、という。
これは、ベンチャー企業における成長戦略としては正しいが、老人の生存戦略としては正しくない。
結果、何が起きるかというと、素人参謀のいうなりになったサラリーマン経営者が、事業ポートフォリオを単一化して、成長事業に賭ける。しばらくはうまくいくのだが、そのうち環境変化が訪れ、その事業がダメになったりする。それは、規制が変わったり、景気が変わったり、天候が変わったり、新たな技術が出てきたり、代替物が出てきたりという具合である。
そこで、十分事業ポートフォリオが分散していれば、全滅はま逃れるのであるが、単一事業では逃げ場がない。そこから多角化などを初めて、借金してM&Aなどを初めて見るが、時すでに遅し。企業の体力たる財務能力がさらに衰え、稼ぐ力を失い、相次ぐリストラで人も失う。やがて、元の事業がどうにもならなくなり、借金こさえて倒産となる。
まあ、これも、程度の問題である。かつての「このーきなんのき、きになるき」の会社はあまりにも事業が多すぎたので、川村会長がやってきた事業の絞り込みは正しかっただろう。ゾンビ事業をさっさと畳んで、健康的な細胞がちゃんと成長できるようにしてやった。親は死んでいて、子供が元気なら、子供を自由にさせ、成長できるようにしてやった。これはよかろう。
だがしかし、肌も合わない欧州から送電線の事業を買ってきて、金属やら化成やら材料産業まで売り払ってしまっては、技術ポートフォリオの広がりがなくなるわけで、生存の可能性を失う気がするがなあ。
まあ、ベンチャーなら、送電に賭けるのもいいと思うんだけど。
と話が横にそれたが、目的が生き抜くことであれば、自ずと戦略は選択と集中とは異なり、分散を十分にすることになる。まあ、全部の作物がくそで、全部の農地が一気に全滅するようであれば、分散にも意味はないのだけれど。
部族社会の伝統というのは、そういう数学的な生存戦略にそってやられているものであるという話であった。
長くなったので、次に続く。