元教授、大学時代の麻雀を思い出す: 定年退職105日目
先日「雀聖、阿佐田哲也さん」の話題をご紹介したところ、読者の方からいただいたコメントで「会社の隣の雀荘で、仕事の出番が来るまで、2抜けルールで5人で駆け込み、出前はかつ丼というパターンでした」という懐かしい思い出をご披露いただきました。私も思わず「それでは私も学生時代を思い出して書いてみます」とお返事した次第です。同世代の方には懐かしく、若い世代には新鮮に映るかもしれません。(タイトル写真は阿佐田哲也さんの著書の表紙より)
当時、大学に入学すると、最初に友人と仲良くなるのは教室ではなく、飲み会か麻雀の場でした。今ほど娯楽が多くなかったこともありますが、長時間話をするには最適で、初対面の人でも半荘(ハンチャン:1ゲーム)卓を囲むとすぐに友達になれました。ドイツ語の「アー・ベー・ツェー」を学ぶより先に、麻雀の役と点数を覚えたものです。
以前にも書きましたが、私の下宿は隣と襖一枚の間取りで、しかも隣は浪人生でしたので、麻雀はできませんでした。そのため麻雀は、友人の下宿か雀荘などが主でした。「など」と書いたのは、大学の近くにあった同窓会館でもよく楽しんでいたからです。
そこは、基本的には大学OBの皆様の社交の場だったのですが、奥まったところで格安(ほぼ無料!)で麻雀ができたのです。周りが名誉教授のようなOBの方々が集っている空間だったので、完全に場違いで、はしゃげなかったのが少々困りましたが、それでも格安が魅力でした。ちなみに会館にはビリヤード台もありましたが、「四つ玉」専門の台のみで、皆さん静かに技術を競い合っておられました。
気兼ねなく話しながら麻雀を楽しむには、当時大学の近くにたくさんあった雀荘が一番でした。コメントをくださった方と同様に、ご飯を食べに行く時間も惜しいので何か食事を作ってもらい(かつ丼は高いので、我々は大抵カレーかチャーハンでした)、卓を長時間囲んでいました。当時は全自動卓などなく、点数も自己申告です。そして今では考えられませんが、ほぼ全員がタバコをくゆらせながら、モクモクの煙の中での戦いでした。面白かったのは、聴牌(テンパイ:アガれる直前)した時だけタバコに火をつける友人がいて、それが合図となり皆気づくのです(もちろん本人には言いませんでしたが(笑))
ただ、雀荘は営業終了時間が限られていた(午前1時くらいまで)のと、やはりくつろげなかった(卓料もかかる)ので、最も多く麻雀に興じたのは友人の下宿でした(十人以上の友人の下宿にお邪魔しました)。しかし、徹夜で麻雀をしていると、上下左右の部屋からドンドンと壁を叩かれます。そこで牌を混ぜる時は毛布をかけ、ひそひそ声で麻雀をしていました。これもコメントをくださった方と同様ですが「2抜け」というルールで5名で順番に卓を囲むことが多かったです(2位になった人が交代するシステムで、長時間になると疲れるので交代できるようにしていました)。麻雀は基本的にはトップを争うゲームですが、徹夜で眠くなった時にはトップではなく2着を目指すこともありました。
そんな中、部活の後輩達だけが住んでいるアパートは、麻雀をするには最適な場所でした。私は部活の監督を1年間したのですが、その時(大学院時代)は平日は研究室が忙しくて行けませんでしたが、毎週土曜日に徹夜麻雀をしに行っていました。いつも大きな菓子袋を抱えて行ったので、皆喜んで迎えてくれました。先日、部活のOB会があり彼らと40年ぶりに会いましたが、皆さん立派な社会人になって(考えて見れば当然(笑))驚いたのと同時に、一瞬で当時に戻り、懐かしさで涙が出そうになりました。
大学時代に一度だけ、教授の先生のお宅で麻雀をさせていただいたことがありました(その恩師は2年前に亡くなってしまいましたが、大好きな先生でした)。驚いたのは、先生が学生時代から何十年も使い続けている麻雀牌は年季が入り、サイコロは転がしすぎて角が取れていたのです。大学でお見かけする先生とは全く違う一面を見ることができ、夢のような時間を過ごさせていただきました。
勝負の行方は覚えていませんが、途中で奥様に出していただいたカレーライスが肉だらけで美味しかったのをよく覚えています(学生のことを考えてくださったのでしょう)。そしてその時先生から教わった「国士無双(注1)は、偶然をいくら待っていてもあがれない。ツモろうと思わなければあがれないよ。これは研究も一緒だ」という言葉は、今でも私の心に残っています。
前回と同じ締めくくりになりますが、久しぶりに麻雀をしたくなりました。そうだ、来週後輩との飲み会があるので、その後にでも雀荘に誘ってみようかしら・・・。
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注1:麻雀における役の一つで、点数の高い役満。東西南北白発中と一九牌などの特別な牌をすべて集める役。
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