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『地面師たち』を見て感じた、「地面所有者たち」の crazy さ

話題になっているドラマ『地面師たち』を見た。

このドラマの面白さは多角的に語ることができるが、ドラマとしての完成度とは別に、視聴者の関心を惹きつけ、揺さぶりをかけてくる要素がある。
それは当然、「積水ハウス地面師詐欺」という実際の事件(をもとに書かれた小説)を下敷きしている点なんだけど、単に再現ドラマ的なもので大衆の耳目を集めているというより、もっと差し迫った領域で揺さぶりをかけられているのではないか。
すなわち

「マジもんの詐欺師は一体誰なんですか?」

という問いが作中で終始突きつけられている。
そんなふうに感じた。

「地面師たち」がそうであるように、詐欺師とは、持続性がないストーリーメーカーのことであると言える。

詐欺師に騙される側の人間は、詐欺師が作り上げたストーリーに対して自らが納得できるだけの金銭を支払う。よくある「持続性がないストーリー」の内容としては、払った金額が来月になると倍になって帰ってくる夢のようなお金儲けのプランや、今だけあなただけに提供される驚くほどお値打ちな取引の打診や、親子ほどの年齢差のある異性からの熱烈な交際の申し込みなんかがある。

詐欺師の多くは金銭を収得した段階でストーリーを持続される努力をやめてしまうのだが、こうなった段階で初めて騙された人間の心中に「詐欺」という認識が発生するわけで、つまり、夢のような話が実現しなくても、ストーリーを維持するための適切な努力さえ怠われなければ、「詐欺」としては意識されないということになる。ホス狂いの状態になっている人に「あなたは騙されているから冷静になったほうがいい」と伝えても意味がないのは、〈状態〉になっている人が重視している項目は、

「与えられているストーリー(絵空事)にいかほどの持続性や強度があるか」

でしかないからではないか。
つまり、知人がホス狂いになってしまった場合、根本的に騙されている、システムに問題がある、といった方面の話をしてもあんまり意味がなく、「担当ホストがストーリーの持続性に対していかにやる気がないのか」といった点を伝えたほうがまだ話が通じる可能性がある。ミッキーマウスが存在しない事実に怒る人はいないが、ファンの前でミッキーマウスの着ぐるみを脱ぐ人がいたら怒る人はいるだろう。
実際に、SNS上で担当ホストのいいかげんな行動に激おこの表明をしているホス狂いの人は「根本的にやっていることが絵空事かどうか」は気にしておらず、「絵空事を維持するやる気がない」点に激おこしているケースが多い。
そんな人を側から見ていると、やる気があるかどうかよりも、もっと根本的なシステムの問題を疑ったほうがいいんじゃないか、と言いたくなる。しかし、より俯瞰的に考えると、人間社会全体がそもそも「なにが絵空事でなにが絵空事ではないのか」という点をまったく気にしておらず、「より確度と持続性が高い絵空事にそれぞれのリソースを適度にバランスを取って注ぎ込んでいるのに過ぎない」側面がある。新興宗教と伝統的宗教の扱われ方の違いは、物語の持続性に対する信用の差でしかないように。

すでに獄中にいる頂き女子りりちゃんが、法的には詐欺行為の主体者であるのにもかかわらず、心情の面で「詐欺師であるかどうか」意見が割れることがあるのは、「りりちゃんをやっている人物」が「獄中でもりりちゃんをやり続ける」ことで、ストーリーメイキングの持続に高い意欲をもっていることが伝わってしまうからではないか。りりちゃんをやっている人物は、獄中でなお営利目的ではなく詐欺師であり続けるために詐欺師であり続けている。かえって、あらゆる詐欺的アプローチから反目していると感じる人がいるのも当然かもしれない。この場合の、「りりちゃんは詐欺師ではないかもしれない」という心情、心境になっている人がその持続性を支持する物語性とは

「人間が人間であり続けること(=なんらかの物語の持続性にリソースを投入し、物語の永続性を乞い願うという意味では常に客体的で在らざるを得ない、不条理で無常な存在であること)をやめ、“少なくとも物語の提供者としては自発的に永続性を担保可能な存在として現れようとする試み”」

(「獄中でも詐欺師であり続ける」という多層的な詐欺構造)

を指しているのでないか、と筆者は思う。
身も蓋も無い話だが、すべてが相対的に詐欺の色彩を帯びていると感じられてしまう環境下で、最も信用にたるのは「やる気のある詐欺師」と言ったらいいのか。頂き女子りりちゃんの件が多くの人の関心を集める背景には、

⑴人間でい続ける(=なにかしらのシステムの持続性を共同体の中で妄信することで長期的時間軸の中を生きる)ためには、
なにかしらの不確実性に生存資源を投入し、同時にそれが必ずしも持続するとは限らない確率論の中を生きる(ことを引き受ける)しかない

という前提がまずあって、その上で

⑵伝統的価値観が解体され、多様な価値観が同時並列的に存在する中で、「不確実性の直視」と「妄信」という二面性を引き受けるしかないのは誰が何を盲信したところである程度しんどい。やっていられない。

という現代的な事情が加わり、さらに

⑶どうせしんどいなら、コントロール不可能な不確実性を引き受けるよりも、「ある物語を自分が信じたいから信じているとみなし、それ以外についてはだとあらかじめ信用ならないものだと見切りをつけておく」という発想

に共感しやすい人が多いからではないかと思う。

コレをものすごく端的な表現に置き換えると、「どうせみんな(価値観の並走によって相対的に)詐欺師(の一面を持たざるを得ない)だから、こっちが勝手に応援したいものを勝手に応援しまーす」といった話になるのだと思う。人間が応援したくなるものといえば、それはもう古今東西「がんばっているやつ」であり、頑張っていないやつ、やる気の感じられないやつ、調子に乗ってるやつは誰も応援したくない。

話が長くなってしまったが、この尺度で『地面師たち』を見ると、

「地面師たち」は詐欺のストーリー性(短期的絵空事)を成立させるためにがんばっているが、「地面所有者たち」(またそれにぶら下がろうとするデベロッパー)は、既得権益的なストーリー性(長期的絵空事)にあぐらをかいて、なんにもがんばっていない(ように見える)

のであり、しかも

所有権に応じてショバ代が上納されるのが当たり前だと信じている最悪に厚かましい上にやる気がない人々

という印象すら生じてくるので、作中で虚偽の売買契約が進行する過程をハラハラしながら見守りつつ、

「早く騙されろ!!!煩悶の業火に焼かれろ!!!」


といった心境が生じる。
視聴者がデベロッパー側に「騙されないでほしい」と願う心情は、むしろ、塩大福の甘さを引き立てる塩くらいのスパイス、カタルシスを誘引するための善人仕草として機能しているに過ぎず、相反したカタルシスを願う心境が、作中にしばしば織り込まれる誇張表現や不快感を煽りすぎない程度に俗悪な演出のエンターテイメント表現によって、ちょうどよく焦点を絞り過ぎない刺激に変換され、気付かない程度に認知の際どい部分を通過するというか。
俗悪が、よりバカバカしいもの(地面所有者たち)のバカバカしさを暗示するヒントになっている。ちょうど良く視聴者の関心を強く惹きつけると同時に、エンターテイメント的な強度によって、本格的に価値観に揺さぶりをかけるところまではギリギリ到達しない、際どいバランスで「良識」の側に保たれた良質な娯楽作品であると言えるのだと思う。

以降はおしゃべりダイダロス独自の考察として「際どいバランスで気が付かない刺激をあえて追求するとどういった内容になってくるのか」、考えたい。

・「所有権」とかいう地上最悪の詐欺

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