母の急逝からの日々 #1
正月三日の知らせ
2024年の正月は元旦に能登半島地震の発生、二日に羽田空港での衝突事故があり、とんでもない年明けだな…と思いながら過ごしていた、一月三日。
翌日から仕事初めなので「仕事モード」に切り替えないといけないな…と思いながら、少し早めの昼食をとっていた時にスマホが鳴った。
母が入院している病院からだった。
「お母さまの呼吸が停止しています。巡回時には心肺停止しており、いま蘇生を行っています。あとどれくらいで病院に来れますか?」
なに言ってんの?というのが最初の感想。
年末に自宅で転倒して大腿骨骨折をした母(77歳)は、そのまま入院。手術は翌日になったけれども無事に終わり、年明けにはリハビリ専門の病院に転院するために転院先を病院スタッフさんと調整して探すことになっていた。
元旦から離床リハビリが始まり、車いすへの移乗→トイレはできるようになったとLINEで知らせてきていたのに。
1月3日の母の急逝にともなう葬儀を終え、2月の四十九日の法要を経てはじめてのお彼岸を迎えました。
バタバタとして少し記憶も薄れつつありますが、自分の心の動き、やらなければならなかった手続き、周りの人のことなどを自分の記録として、そしていつか誰かが目にしてちょっと参考にしてくれるかもしれないと、少しずつ書き留めていくことにしました。
転倒、救急搬送
話は2023年の年末に戻る。
クリスマス(12月25日)の日は月曜日で、いつもと同じように仕事に出掛けた。母もいつものように、バルコニーから私を見送って手を振ってくれた。
仕事が始まって1時間ほど経過した9時半ごろに、母からLINEが来た。
「転んで、痛くて動けない」
なんのこっちゃ?と思いながら、ちょっと抜け出して電話をしたところ「クッションカバーを掛け替えようとして外したら、その外したカバーで足を滑らせて転んだ」らしい。
たまたま手の届くところにスマホがあったからLINEはできたけれど、全然動けないという。
ただ事ではないので職場の人や上司に事情を話し、そのまま私は早退した。
帰宅するとちょうどマンションのエレベーター点検中だったが、事情を話して動かしてもらい自宅に入ると、リビングで転がっている母がいた。
「痛くて痛くて、折れてるかもしれん」
とにかくすぐに救急車を呼ぶことにした。
幸いすぐ近くの分署からすぐに到着、受け入れ先もかつて膝の人工関節置換手術をした大きな病院に決まり、万一手術になってもちょっと安心だね・と言いながら搬送してもらった。
救急車の車内で母は、ずっと「痛い」と「ごめんな、迷惑かけたな」を繰り返していた。
大腿骨骨折
搬送後に「大腿骨骨折」と確定。
ただ母は心臓が悪く血液をサラサラにする薬を服用していたので、その場合は服用後24時間以上経過しないと手術ができないそう。
そのため手術は翌日の空いた時間にねじ込むということになった。
ここまではそこそこスムーズに進んだのだが、入院後は「面会ができない」ことが判明。
コロナが5類に移行した後も、大きな基幹病院(っていうの?国立病院とか、大学病院とか、市民病院など)は基本的に面会禁止が継続していた。
なので母とは、入院する病棟の詰め所に付き添ったところで別れなければならなかった。
「荷物や洗濯物は、詰め所にことづけてくださいね」という。
私立の病院なら、時間制限があったり予約制ではあっても面会できるのに…と思いながらも、仕方ない。
「寂しいけど、がんばろうな」と、お互いにLINEでやり取りをして、その日はひとまず帰宅した。
帰宅、その後
帰宅することにしたはいいが、いちおう「帰れるつもり」もあったので母の靴やコートを持ってきていた。
そこに、入院着に着替えた母の服が加わって、すごい荷物の量になってしまった。
タクシーで帰宅するには距離がありすぎるので、母の妹になる叔母に事情を話し、迎えに来てもらうことができた。
その車中では、大腿骨骨折を機に運動機能が低下したり認知機能に支障が出ることもあるからよくお母さんを見てあげないと・と叔母と話をした。
両膝に人工関節を入れた母なので、リハビリ自体には意欲的に取り組んでくれそうだけれども…それから8年くらい経過しているので、やはり同じようにはいかないかもしれない。
身体機能はどのくらい落ちるのかな
認知症の傾向が出たらどうしようかな
…そんなことを漠然と考えながら、出かけたままにしていった家の片づけをした。
母の部屋に入り、しばらくは使わないだろうパジャマやシーツ類、その日持ち帰った衣類などを洗濯した。
そして職場に「明日手術なのでもう一日お休みいただきます」と連絡。その年の7月に転職したばかりの職場だったので少し不安だったが快く受け入れてくれたので安心した。
この先どうなるんだろうな…
仕事とお見舞いや、そのあとのリハビリをうまく両立できるかな…
このころはそんなふうに、いま思うととても楽観的な(?)不安をかんじていた。