徒然 #05
『噯にもださないことは、愛なのか』
わたしは思いついたことや考えたいことの見出しをメモにとる。
その中の一つがこれ。
噯(おくび)、とはゲップのことだそう。
生理現象のゲップさえ我慢してしまう、から転じて、自分の考えや感情を他人に知られないように、内心に秘めて表に出さないことを表す言葉として遣われる。
〜以下引用〜
この表現は、自分の本心を隠すことで、他人との関係を円滑に保つためや、自己保身のために用いられることが多い。また、自分の意見や感情を抑えて他人に合わせることを示す場合にも使われる。例えば、自分の意見が周囲と異なる場合や、自分の感情が他人を傷つける可能性がある場合などに、この表現が用いられることがある。
〜〜〜〜
自分が口を噤むことで、無駄な軋轢を生まずにすむのなら、余計なことを言わないでおこう…と思う気持ちはわからないでもないが。。。
飲み込んだことが後々自分の中でフーセンガムみたいになって、パン!と弾ける時が、来ないだろうか。
とはいえ
わたし自身は圧倒的に黙秘権行使タイプだし、そういう パン! となるかもしれない事柄を、こういうところに書いて発散する(=すこぶるタチが悪い、悪すぎる!)ので、
『噯にもださない』ということが理解できないわけでではなく、むしろ首がもげるほど頷きまくって
いやそれ、わっっっっかる〜〜ぅ!!!!
というスタンスなのである。(完)
ところでどうして、『おくび』という漢字は、『口』に『愛』なのだろう。
おくびにも出さないことが、相手を思いやる『愛』を伴ったものだから?
はたまた自己『愛』からくる自己保身のためだから?
真相はわからないし、ネバーエンディング・タラレバ7並べは永遠に繰り返せるけれど
それなりの関係性のある(それこそ愛を持って接したいと思うくらいの)相手との関わりの中で、
衝突を避けたいがために自分の意見を飲み込むことが、果たして愛なのか、優しさなのか、という問題が浮上する気がする。
(数ヶ月前のわたしならそんなこと思いもしなかっただろうにな。)
その場をやり過ごせばいい場合の噯にも出さないは、いい意味で大人というか、確かにそういう気遣いがあってこその場面は数多とある。
ただ、今後長く付き合っていく間柄の人たちに対して噯にも出さないというのは、出さなかった方も出されなかった方も、なんだかよそよそしくて本当の意味で分かり合えている、にはならない気がする。
(そもそも、噯にも出していないのだから出されなかった方は知る由もないんだけれども)
それが愛かと言われたら、そうだとは答え難いような。
ふむ。
ただ、わたしが考えていく上で、これを愛に繋がる様にもっていく方法を一つ思いついた。
それは本当の本当に、
『噯にも出さない』
ことだ。
他人どころか自分すらも欺く勢いで噯にも出さない、その考えすら存在しなかったかのように、ただただ相手に賛同している様に心の底から見せかける、それに尽きると思う。
何か不満があるだなんて微塵も感じさせないほど、潔い噯にも出さないができた時、それは、
愛のための鱗片になり得るのでは、とわたしは思う。
だからね、
親しい間柄ならば、ゲップくらいしたところでなんてことないんです。
(※責任は負いかねます)