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『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』における「本を読めなくなる」のは誰なのか?


「仕事」と「休息」の二律背反

現代社会における「仕事」と「読書」の関係性を俎上に載せた『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、労働と余暇の二律背反を鋭く描き出している。

本記事では、同著者による新連載『なぜ夫は病院に行かないのか』も参照しつつ、「本が読めなくなるのは」「病院に行かないのは」誰なのかについて考えたい。

働いていると(労働者は)本が読めない。夫(労働者)が病院に行かない。
両著作では、労働者の心身の疲弊と社会構造の関係性を指摘する。『なぜ働いていると〜』では「半身社会」という概念が提示される。これは、従来の「全身」的な労働態度への批判的視座を含んでおり、持続可能な社会の在り方を模索する試みの1つと言える。

「全身」社会には持続可能性がなく、社会の複雑さに耐えられない疲労した身体ができあがる。だからこそ、「半身」として、様々な文脈に身を委ねる。委ねるもののなかには読書ももちろん含まれているし、さまざまな場所に居場所を作ることでもある。

 仕事に人生を奪われたら、だめだ、と思います。まあ、仕事、熱中しちゃうんですけどね。好きだから。でもそれが偉いことみたいに、思いたくない。仕事に熱中しない自分を、否定したくない。
 そういう未来の自分への忠告を書き残しておきたくて、本書を書いたのかもしれない。そう、今は思っています。

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか?』

さて、ここでタイトルに記載した疑問符に立ち戻りたい。

働いていると本が読めないのは誰か?病院に行かないのは誰か?
それは心身ともに疲弊している現代人であり労働者である。そして彼らがこの書籍を買って読むのだろう(あるいは買ったままにするのだろう)。


『万引き家族』に見る可視化されない労働者像

翻って、是枝裕和監督の『万引き家族』に描かれたものに目を向けると、異なる様相が浮かび上がる。映画の中で父親として登場する治(リリー・フランキー)は、日雇い労働者であるが、本は読まない。ある時、負傷して働けなくなってしまうが、労災給付は出ずに泣き寝入りをする。病院に行かないのではなく、行けない。「半身」の働き方を選択する余地すら持ち得ない。

換言すれば、前述の著作が想定する「私たち」の外部に位置づけられる存在なのである。

高層マンションの谷間にポツンと残された今にも壊れそうな平屋に、治(リリー・フランキー)と信代(安藤サクラ)の夫婦、息子の祥太(城桧吏)、信代の妹の亜紀(松岡茉優)の4人が転がり込んで暮らしている。彼らの目当ては、この家の持ち主である初枝(樹木希林)の年金だ。足りない生活品は、万引きで賄っていた。社会という海の底をはうような家族だが、なぜかいつも笑いが絶えず、互いに口は悪いが仲よく暮らしていた。冬のある日、近隣の団地の廊下で震えていた幼い女の子を、見かねた治が家に連れて帰る。体中傷だらけの彼女の境遇を思いやり、信代は娘として育てることにする。だが、ある事件をきっかけに家族はバラバラに引き裂かれ、それぞれが抱える秘密と切なる願いが次々と明らかになっていく――。

https://www.fujitv.co.jp/b_hp/manbiki-kazoku/index.html

では、働いていると本が読めなくなるのは誰なのか?
病院に行かない夫はどこに存在するのか?
少なくとも、『万引き家族』の中には存在しない。


「社会を読む作法」と「一般化という陥穽」

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』『なぜ夫は病院に行かないのか』は、『万引き家族』に登場する彼らを掬い取れていないのだという暴論を掲げたいわけではない。しかし、ここから社会構造の分析における重要な示唆を汲み取る必要がある。つまり、単一の事象から社会構造全体を読み解こうとする試みは、時として特定層の経験を過度に一般化してしまう危険性を孕んでいるのである。

カズオ・イシグロが提唱する「縦の旅行」という概念は、この文脈において特に重要な示唆を提供する。

私は最近妻とよく、地域を超える「横の旅行」ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る「縦の旅行」が私たちには必要なのではないか、と話しています。自分の近くに住んでいる人でさえ、私とはまったく違う世界に住んでいることがあり、そういう人たちのことこそ知るべきなのです。

https://toyokeizai.net/articles/-/414929

イシグロは、異なる地域への「横の旅行」に対して、同じ通りに住む人々の生活世界をより深く知ろうとする「縦の旅行」の重要性を説く。これは単なる物理的な近接性を超えて、異なる社会階層や生活様式を持つ人々の経験を理解しようとする試みである。

ここまで論じてきた「本が読めない」という現象も、この「縦の旅行」の視座から捉え直せば、同じ「本が読めない」という状況であっても、それが時間的余裕の不足に起因するホワイトカラー層と、そもそも読書という行為自体が生活圏の外にある層とでは、その意味合いは大きく異なる。『万引き家族』に描かれる人々の生活世界は、まさにこうした階層性を可視化する装置として機能する。

社会の複層性を認識しつつ、なお個別の現象から構造的な問題を考察することの意義は失われない。ただし、その際には分析の射程と限界を明確に意識する必要があるだろう。本記事の文章も、一階層からの主張に過ぎない。しかし、このような限定的な考察の積み重ねこそが、社会の全体像に接近する端緒となり得るのではないだろうか。


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