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多様性のある世界に行くために、まずは脳を柔らかく気持ちよくほぐそう

「この世の中で自分はこれからやっていけるかな」

そう思うことは過去にもあったし今でもある。私以外でも多くの人が思うのではないか、少なくとも一度くらいは。

就職活動前やその途中だったり、実際に就職する直前だったり、環境を変えたいけど転職活動を躊躇するときだったり、いや、仕事に限らず留学とか進学、結婚生活でも多々あるかもしれない。

あなたは、私は、上手くやってこれたのだろうか。今は上手くやれているのだろうか。これからは上手くいくのだろうか。

気持ちよく首を縦に振れる人は少ないだろうが、そもそも「上手くやる」の基準や意味が曖昧な気はする。「幸せ」が人それぞれのように。

器用ではない。人と話すのも得意ではない。複雑じゃない地味な作業で日々高くないお金を稼いでいる。友達も多くなくて、夜や休日に細々とする趣味だけが楽しみ。

以上のような人は上手くはやれていないのかもしれないが、趣味「だけ」が楽しみでも、そこにかなりの幸せを感じていれば、十分な気もしてしまう。器用で会話も得意でしかし人の期待に応えるのだけが気持ちよくて気づけば過重労働で心身が限界に……という人よりいいのではないか。趣味をあらゆる角度から専門的に探究して、気が付けば(別に本人に欲は無かったが)マネタイズへの道が開けているかもしれない。まあでも、本人にとっては些末事かな。

一見地味、一見貧しい、一見不器用、一見大変そう、こうした自分とは少し離れたところにいそうな人たちが、一概に「上手くいってない」とは限らないし、自分の「上手くいってる」基準が狭まり、脳から多様性が失われてしまっているのかもしれない。

例えば今の職場の環境がイマイチだと思って転職活動しようにも、頭のどこかに「今の職場」が基準としてあると、環境を変えたいのに、今と同じような環境を無意識的に探してしまい、「自分はやっていけるかな」という不安も強まってしまう。頭の中を少しずつほぐしていかないと、新たな道も見えてこないし、そこでの活躍や充実も思い描けないだろう。

そもそも、さっき「脳から多様性が失われている」と書いたが、最近まで「多様性」という言葉に私はピンと来なかった。

いや、重要性は分かっていたつもりなのだ。無いよりはあった方がいい。あらゆる面で。しかし「多様性」という言葉自体を様々なイメージで浮かべてみたり、言葉自体を哲学的に掘り返したり、ということはしなかった。

どうしても、トレーの上に色とりどりのレゴブロックが綺麗な並んでいるのが多様性、というイメージになっていたのだ。そもそも「必ずしも綺麗に並んでなくてもいいし、綺麗に並ぶ場合でもトレーはいらないかもしれない」と考えられるくらいには脳をほぐす必要があった訳だ。

トレーは「壁」とも言い換えられるかもしれない。夢や目標、理想さえも「壁」の向こうに押しのけ、「『壁』を超えるには超人的な努力が必要だから私には無理だ」としてしまう。勝手に壁の片方に自分を置き、行きたいはずの世界を押しのけてしまう。

ならば想像している「超人的な努力」の半分か三分の一以下でも、まずはやってみたらいいと思う。意外とまだまだいけると思うかもしれないし、想像自体が変わるかもしれない。案外やってみたら乗り気がせず、あっさりと別な道を探すようになるかもしれない。

誰しもがやれること、考えられることは限られており、地球の資源も限りあるが故に、想像力が容易に限界を構築する。それは仕方ない。しかし限界を無いことにはできないにしても、半分頭の中で透過させたりしてみて、そこから見える世界で、まだ何かできないか考えてみる。そういう応用の積み重ねくらいはできるかもしれない。




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