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2冊の本

 (繰り返しますが、私の書くことはすべてフィクションですよ。)

 2021年10月22日現在、「東八幡キリスト教会」で売られている2冊の本について、共通点と相違点などを述べたいと思います。これも長さを気にしない記事で、気ままに書く記事です。

 2冊の本とは以下です。

 [O]奥田知志『ユダよ、帰れ』(2021)
 [M]松本志郎『永遠の命』(2019)

 まず、2冊に共通する話をいくつか並べますね。

 とても似た話が出てきます。[M]の「子どもの欲求」という話です(P.122)。「けっこう、子どもの欲求は、聞いてしまいます。何を食べたいか、何が欲しいか…」と書いてあり、しかし、子どもというものは、知っている世界がせまいので、自分の知っているわずかな食べ物のなかから選ぶと書いてあります。「ポテト」など。そこから[M]の話はいきなりオーケストラの話になります。オーケストラ部に入ってくる新人に、なんの楽器をやってみるか、希望を聞くと、たいがい「有名な楽器」ばかりになると。「ヴァイオリン」「フルート」「トランペット」みたいな感じになるわけです。しかし、知らないだけで、自分に向いている楽器はあるはずと[M]は続きます。やりたい楽器をやらせないで、やりたくない楽器をやらせるなんて、一見むごいことのように思われるが、じつは、本人の視野がせまいだけかもしれないと書いてあります。そして「神様も、そうかもしれない。一見、私の希望していない、むごい道を示されたとしても、神様はすべてお見通しで、私のためを思ってくれているのかもしれない」と[M]は結んでいます。1ページちょっとの短い話です。これによく似た話が[O]に出てきます。P.67くらいから出る話ですが、マタイによる福音書に出てくる話で、「自分の子が魚を求めるのに、へびを与える者があろうか」とイエスが言う場面です。ここで[O]は、「たしかに子どもが魚をほしがっているのに、へびを与える親はいないが、魚を欲しがる子どもに野菜も食べなさいという親はいる」という話をしています。「裏切る神」の話です。ここで[O]の言いたいことは、ほぼ[M]と同じです。「子どもに与える食べ物の話」ということで、出す例まで同じです。先に出た本は[M]ですから[M]が[O]をぱくったわけではありませんが、[O]が[M]をぱくった可能性もあり得ません。2人の著者が、そろって同じようなことを言っているのです。ちょっとしたおもしろい一致だと私は思います。

 それから、[M]は、P.98から、「お祈りは神さまに甘えること」という話を書いています。土居健郎(どい・たけお)の『信仰と「甘え」』という本の話をひいて、「お祈りは神さまに甘えること」だと書いてあります。これと、[O]の、P.141から始まる「もう一つの信仰告白-戸に鍵をかけ、クソったれと祈る」という話全体で言いたいことが、ほぼ同じなのです。[O]で著者は、「神様クソったれ!なにしてくれてんねん」と祈ることをすすめています。「神様に甘える」ことと「神様クソったれ」のどこが共通しているのかと思われたかたもあろうかと思います。しかし、「クソったれ」と言うことは、ぐちを言うことで、ぐちを言うことは、甘えていることになります。ですから、神様に「クソったれ」とぐちを言うことは、神様に甘えている、つまり、神に祈っていることになるのです。これが祈りの本質です。

 似たような話は私も書いており、つい最近書いた「ヨブ記」の話、また、さっき書いたばかりの「エレミヤ書」の話でも、私は「神に甘える」=「神にぐちを言う」話を書いており、これは私のライフワークのようになっています。[O]の著者と[M]の著者に、心から賛同します。以下にその2つの話のリンクをはります。律儀にお読みになる必要はございませんよ。ただし、エレミヤ書の話のほうはいまのところひとつもスキがついていなくて、少しさびしいかな…(笑)。


 それから、細かい類似点を少し挙げますね。[O]のP.75に書いてある「キリスト教はこういう恰好の悪いこと、みっともないこと(ペトロの裏切りのこと)をちゃんと書き残したので、私は好きです」という言葉と、[M]のP.17の「もしも、このペトロが3回知らないと言った話が、ゆるされない話であるなら、おそらくこの話はタブーとなり、書き残されることもなく、永遠の闇に葬られたことでしょう」という言葉。この2つの発言はそっくりだと言えるでしょう。

 また、[O]の著者の言いたいことは、ひとことで言うと「祈りとは願いがかなうことではない」ということであり、このテーマは奥田さんの説教のなかでひんぱんに登場します。たとえば、以下の「目が見えない人が見えるようになった」という聖書の話に関する説教でも、「目の見えなかった人が見えるようになってよかったですね」というところに力点があるのではなく「目が見えるようになった人は、イエスについていきました」というところに力点のある話になっています。律儀にご覧になることはないですよ。スルーでけっこうです。


 また、以下の話は「問題解決の救い」と「共にいる救い」の話ですが、「問題解決の救い」とはまさに「願えばかなう」式の救いであるわけです。もちろん目の見えなかった人が見えるようになることはすばらしい(なんといったらよいか)話であり、食べるもののなかった人が食べられる、住むところのなかった人が住める、ということの大切さを、奥田さんはよくご存知です。しかし、じつはそれ以上に深刻なのは「しゃべる相手がいないこと」「甘える相手がいないこと」「ひとりぼっち」ということであって、そこで奥田さんの強調点は「ともにいる救い」(インマヌエル、伴走型支援)ということになるのです。神様って典型的な伴走型支援ですよね。以下にまたリンクをはります。律儀にご覧になることはないですよ。スルーでけっこうです。



 そのことを書いた[M]の箇所があります。P.21に「天の父は、この小さな私をもつくった、私たちのイエス・キリストのおとうちゃんでもあります。「おとうちゃん、たすけて!」といって、すぐにとんできてくれるわけではないけれど、天に、いてくれるだけでありがたい、わたしたちの天の父。願わくはみ名をあがめさせたまえ」と書いてあります。これは[O]風に言うと、「「おとうちゃん、たすけて!」といって、すぐにとんできてくれるわけではないけれど(問題解決型ではない)、天に、いてくれるだけでありがたい(伴走型です)」ということになります。この2人の発想は、このように、なかなか近いものがあります。

 いっぽうで、相違点も挙げたいと思います。[M]の一つ目の話は、「キリスト教はご利益宗教です!」という話であり、「盲人バルティマイはイエスによって目が見えるようになった!求めなさい、そうすれば与えられると言う!」と主張しております。これはまさに「願えばかなう」式の発想であり、[O]にはぜったいに出て来ない考え方です。つまり、相違点もたくさんあるということです。

 そんな2冊です。[O]は、先月、刊行されましたが、どうも売れ行きがかなり良いようで、入手困難となっており、Amazonでもなかなか手に入らない状況が続いています。これも「東八幡キリスト教会」に問い合わせれば、すぐに入手できます。いっぽうの[M]はそもそも非売品であり、Amazonでもどこでも売っていません。唯一、これを売っているところが「東八幡キリスト教会」であり、問い合わせれば、一冊1,000円プラス送料で買えます。2冊とも、売り上げはすべて慈善活動に寄付となるようです。とくに[M]は売り切れごめんの早い者勝ちのようです。ぜひ買いましょう!

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