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絶対に聖書に出てこない言葉

 2年前、第2回の休職をして、無理解な実家の父母のもとにいたころの話です。

 私は、ひたすら、両親に、「ゆだねる」「ゆだねる」と言っていました。言っていたというより、身近にキリスト者がいないので、ひたすら、自分自身に言い聞かせていたのです。

 父は、「そんな、なにもかもゆだねちゃって、なーんにも自分では努力しなくなっちゃったら、だーめなんだあ!」と言っていました。違うのに。「ゆだねる」って、そういう意味じゃないのに。

 (自宅へ帰ったとたん、妻に「ゆだねる」の意味がすぐに通じて、ホッとしたものです。「ゆだねる」って、オレだけの感覚じゃなかったんだ!)

 あまりに私が「ゆだねる」「ゆだねる」と言うので、父は言ってきました。「『天は自ら助くる者を助く』って、聖書の言葉じゃないのか?」と。

 とっさに、「聖書の言葉じゃない」と言いましたが、じゃあ出典はなんだと言う。

 くやしかったので、あとで、図書館に行って、調べました。

 十九世紀イギリスの「自助論」という本が出典でした。「天は自ら助くる者を助く」。

 (土居健郎は、『「甘え」の構造』のなかで、この言葉を論じており、もっと古い出典を挙げていましたが、いずれにせよ聖書の言葉じゃないのは確かです。たしかにね。この言葉、「甘え」から、最も遠い言葉ですからね。)

 イエスのように、はっきり言っておきます。

 「天は自ら助くる者を助く」んだったら、神様も隣人も、いらないです!

 十九世紀イギリスって、無神論が流行ったんですって。それで、こんな言葉が生まれたのかな。

 (先月、奥田知志先生の説教のなかにこの話が出て来て「まさに!」と思いました。)

 絶対に聖書に出てこない言葉です。「天は自ら助くる者を助く」。もう一度、言いますけど、自分で自分が助けられるのであれば、神様も隣人もいらないです。「自分のことは自分でしましょう」「ひとに迷惑をかけてはいけません」という人たちは、自分でどうにかせねばならないと思っているのでしょう。いちばんどうにもならないのが、自分自身のことなのに。

 (私の母の口ぐせでもある。「ひとさまに迷惑だけはかけちゃいけない」。自分はひとに迷惑をかけていないつもりなのでしょうか。迷惑をかけて、かけられるのが、人間関係ではないでしょうか。)

 助けて、助けられて、どうにか、この世の旅路を歩みましょう。厳しいことを言う人もいるけれど、世の中は鬼ばかりではない。助けてくれる人もいるのだ。私はいろいろな人に甘えながら、これからも生きていくぞ。パンが足りなくなったら、夜中に友人の家に行って、パンを3つ、借りてくるぞ。みなさん、甘えて生きましょう。神に甘え、人に甘えましょう。

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