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採点は極めて人間的な営み

 世の中のほとんどのことは、答えなどありません。少なくとも、正しい答えはひとつなどということはありえません。しかし、教師だった時代、生徒を見ていて思ったのは、ほんとうに、答えはひとつだと思っている生徒の多いことです。私は数学でしたが、「数学は答えはひとつかもしれないけどよ、人生は答えはひとつじゃねえんだよ」と、とんだとばっちりを受けることもありました。言っておきますけど、数学も、答えはひとつじゃないですよ。
 たとえば「Aという論文とBという論文、どちらが価値が高いと思いますか?」みたいな問い。もちろん、「多くの人は、Bのほうが価値が高いと思う」とかいうことはあります。しかし、なかには、「Aのほうが価値が高いと思う」という人がいる以上、この問いは、答えがひとつではありません。

 「採点」というものは、極めて人間的な営みだと思います。答案を書くのも人間の頭、採点をするのも人間の頭。人間の頭どうしのぶつかりあいなのです。極めて人間的な営みだと思っています。それを、たとえば中高の数学のテストでは、「採点基準」というものが設けられていて、一応、だれが採点しても同じ点数になるという看板で、採点しています。私は、ありえないと思います。採点は主観ですから、「私はこの答案はいいと思う」「私はこの答案はあまりいいとは思わない」とかいうことがあってよいというか、あって当然なのです。答えはひとつじゃないから。だれが採点するかによって点数が違ってくるのは、当たり前というか自然だと思います。「採点基準」というものは、幻想だと思います。

 また、「部分点」というものが、よくないと思います。「ここまで書けていれば何点」。しかし、それだと、よーく頭を使って、答案全体を見たとき「なんだこいつ、それらしいことを書いているけど、まるで全然、理解していないじゃないか」ということがあります。しかし、そういう答案が、「ここまで書けていれば何点」という部分点によって、それなりに点数をかせいでしまうことがあります。逆もあります。「この答案は、数は計算間違いしているけど、本質をつかんでいるなあ」というような答案です。こういう答案こそ高く評価したいものですが、数を間違えているため、大量に失点していったり。
 
 これすべて「返却」がいけないんです。教師だった時代、「返却」さえしなければ、よほど、もっとずっと本質的な採点ができるのになあ、と思ったことはしばしばでした。「返却」するから生徒は言う。「ここまで書けているじゃないですか~、ここまで点あるんじゃないですか~」。「ばかもーん!お前の答案は、よく見れば、まったくなにも理解していない人の答案だということ、火を見るよりも明らかなのだ!」と答えてやりたいですが、本人は、自分がいかにできていないかも自覚していないので、手に負えない。
(大学入試は返却されないから、高校教師の1点きざみの採点より、はるかに本質的な採点がなされているのだろうなあ、と思ったことはしばしばでした。)

 とにかく、児童・生徒は、「正しい答えはひとつ病」に侵されているし、それは教師もそうなのではないかと思っていました。少なくとも、採点なんて主観だし、採点する人によって違うのは当たり前だし、同じ人でも朝と夕で採点が違うのも当たり前だし、もう、中高の数学の採点なんて、ありえないくらい嫌だった!

 このへんまでです。お読みくださりありがとうございました。

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