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宗教でないものがあやしい
きのうも、ある大きな神社から、2時間くらいかけて歩いて帰ってきました。驚いたのは、緊急事態宣言が出ているのに、多くの飲食店が営業なさっていることです。営業しなければやっていけないのでしょうね。私の通う教会みたいに、閉めているところが、バカ正直みたいに感じられます。
その道の途中に、「あやしい宗教みたいな」建物があります。いかにもあやしい宗教みたいな建物なのですが、どうも曹洞宗のお寺みたい。そういう伝統宗教の人と、新興宗教みたいなかた(私が似ていると思ったのは「法の華三法行」の建物です)と、発想としては同じなのだなあ、ということを思わずにはいられない感じでした。
そういうわけで「あやしい宗教みたい」という言い回しは、一種の決まったフレーズになっているような感じさえしますが、それくらい「宗教ってあやしいもの」という大前提が世間にはあるということです。
しかし、私が思うのは、「宗教でないもののほうがあやしい」ということです。
ある人が言っていました。ある新宗教(名前を出すと悪口になると思いますので伏せます)が「これは宗教ではありません」と言っているようで、その人は「これは宗教ではないんですって!」と言って、ハマっていました。その人は、「宗教はあやしい」と(無意識的に)思っている人です。「これは宗教ではない」といううたい文句に「だまされて」、うかうか信じているのです。
キリスト教のいいところは、はっきり「これは宗教です」と言っているところだ、と私は感じています。キリスト教は、はっきり宗教だからいいのです。宗教でないもののほうがあやしいのだ。
だいぶ前ですが、あるときYouTubeを見ていて「おじさんのための福音」とかいったものをやっていました。そこに出て来た人は「キリスト教は、いわゆる『宗教』ではありません」と言っていました。私は急に見る気をなくし、続きは見ませんでした。キリスト教のよさは、「宗教でない」ところにあるのではない。その逆で、「宗教である」ことが、キリスト教のよさだ。と私は感じているからです。
キリスト教のよさは、「宗教である」こと。宗教でないもののほうが「あやしい」のです。以上です。