成功者ほど視野がせまい
(私の書くことはすべてフィクションですよ。)
私はかつて中高の教員でした。典型的なダメ教員でした。私ほどではないものの、ある、いわゆる「ダメ教員」の理科の先生がいました。その先生は学歴は高いらしく、学者肌だったと思います。したがって教員が向いていなかったのです。(先日出した、自慢の得意なクリスチャンの理科の教員とは別の人です。彼は「できる」教員だった。もっとも私の書くことはすべてフィクションですけど。)その先生の専門は地学でした。しかし、その先生は、おそらく「できない」教員だったからだと思いますが、地学のほか「物理」「化学」「生物」「中学理科」のすべてを教えた経験があったと思います。できない人ほど、いろいろ回されるので、結果的にいろいろな経験があるのです。
ある社会の先生も思い出します。その先生は、典型的に「できる」先生でした。「日本史」が得意でした。その先生に日本史を任せておけば間違いないため、その先生は日本史ばかり教えていました。とてもできる先生でした。それゆえに、「日本史」以外の経験がほとんどないのではないかと思います。
教員には「校務分掌」というものがあります。教員は「教える」こと以外にもさまざまな役割を負っています。「進路指導」「生活指導」「生徒会顧問」「時間割作成」「会計」などがわかりやすい「先生の、教える以外の仕事」でしょうか。さきほどの「できない理科の先生」は、校務分掌も、たくさん経験しておられました。ほとんどの校務分掌はやったことがあるのではないでしょうか。一方で、先ほどの「できる」日本史の先生は、「進路指導」が得意であり、その先生に進路指導を任せておけば間違いないため、その先生は進路指導ばかりやっており、おそらく「会計」のやりかたなどは知らないでしょう。
私は先ほどの「できない」理科の教員の比ではなくできなかったので、もっともっといろいろな経験をしています。そもそも経験が教員だけでないです。司書の経験もあり、「総務」「人事」など、いろいろな経験をしています。その代わり、どれも中途半端なので、キャリアにはなりませんけれども。つまりどれもまっとうできないからいろいろ回されて「やったことある仕事」だけやけに多いわけです。
私の父は「機械工学」一筋でした。それで社会的には非常に成功しています。先日の文化の日には、長年の研究が認められて「勲章」を受章しています。その代わり、世界は著しくせまいです。
私の母は、若いころから「ピアノ」一筋でした。その道でかなり成功しています。その代わり、母も極めて世界がせまいです。
私の両親は、私のような「ダメ息子」が、自分たちよりはるかに世界が広くて視野も広いことを認めようとしません。社会的には彼らのほうが私とは比較にならないほど成功しているからです。そして彼らは「健全な常識人」で、私は発達障害の「非常識人」です。しかし、実際には彼らは最低賃金で働いた経験もなく、困って福祉に頼った経験もありません。私のほうが彼らよりはるかに人生経験があり、視野も広いのです。