「ラデツキー行進曲」を指揮した話
これはせまい意味でのクラシック音楽のオタク話ではなく、「クラシック音楽には詳しくないけれども、オーケストラや指揮者というものに興味がある」と思っておられるかたにはお読みいただけるように書きたいと思っている記事です。よろしければお読みくださいね。
ヨハン・シュトラウスの「ラデツキー行進曲」という短い行進曲があります。「それは知らない」というかたでも、おそらく耳にしたことのある音楽です。聴けば多くの人が「それね。よく知っている」とおっしゃるのではないかと思います。多くの人は「ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート」でご存知なのだろうと思います。正月によくウィーン・フィルが出て来て、大きなホールでニューイヤーコンサートをしているのをご覧になったことのあるかたは多いのではないでしょうか。正月にテレビを眺めていて、「東西寄席」と同様の可能性で目に留まる番組だろうと思います。あの演奏会において、必ず最後に演奏されるマーチ(行進曲)があることをご存知でしょうか。指揮者がこちらを向いて客席に手拍子を求めます。観客は曲に合わせて手拍子を打ちます。あれがヨハン・シュトラウスの「ラデツキー行進曲」です。この曲は、私自身、高校のオケの時代から数限りなく演奏し、また、指揮者だった3年間もたくさん指揮をしてきた曲です。その思い出について書きたいと思います。
最初に作曲者の名前の確認だけ、しますね。彼をフルネームで呼ぶのは、クラシック音楽界で「シュトラウス」という名前の作曲家が複数いるためで、とくに「リヒャルト・シュトラウス」と区別するためだと思います。リヒャルト・シュトラウスは、父親であるフランツ・シュトラウスも作曲をしていますが、それ以外に親族で(有名な)作曲家はいないだろうと思います。ヨハン・シュトラウス一家はたくさんの作曲家がおり、とくにこの「ラデツキー行進曲」を作曲したヨハン・シュトラウス1世の長男であるヨハン・シュトラウス2世が有名ですが、ここでは以降、シュトラウスと言えばこの「父親の」「1世の」ヨハン・シュトラウスを指すものとします。しばしば作曲者名も省略します。
この曲をはじめてやったのは高校生のときになります。この曲はそのウィーン・フィルのニューイヤーコンサートで有名なこともあり、ひんぱんにアマチュア・オーケストラでもアンコールに用いられるのです。後述しますが、この曲のオリジナルは吹奏楽であり、ウィーン・フィルが演奏しているオーケストラ版は「編曲もの」になります。オーケストラ版はニ長調ですが、オリジナルの調はニ長調でもなかったと思います。とにかく私はオーケストラでしかやったことがなく、そして、CDやテレビで聴く限りにおいては、少なくともウィーン・フィルの使用している楽譜と日本のアマチュアのあいだで多く使われている楽譜は異なることも知っていましたが、当時はそれほど詳しくなかったです。とにかくアンコールにはよくやりました。難易度がそれほど高くないわりにお客さんの受けはよい曲ですので、必然的によくやることになるわけです。高3のときにインターハイの開会式でマーチを演奏せねばならなかったときに入場だったか退場だったかでこの曲を演奏したことはすでに記事にしました。最後にリンクをはりますね。
大学に入ってからもこの曲はよくやりました。とくに、五月祭と言われる東大の学園祭のひとつでは、これが必ずアンコールであったものです(当時の話であって、いまもそうかどうかは知りません)。指揮者は、ウィーン・フィルの指揮者のように、お客さんに手拍子をうながし、それが大変に好評なのでした。また、東大オーケストラは、このプログラムを持って「小学校まわり」をよくやっていました。東京の近辺の小学校でも、地方公演の最中の「卒業生が東大オケにいる小学校」での「凱旋公演」でも、この曲はアンコールの定番でした。私はこの曲が降り番であったときに、ツアーの最中、フルートの仲間(この曲でピッコロを吹いていた)が、レポートの出し直しのために突然、東京に新幹線で戻ってしまった(!)ことがあり、本番の「代打」でピッコロを吹いたことがあります。ひどい出来だった記憶があるのですが、いつも厳しい先輩がなにも言わなかったことが印象に残っています。
東大オケをやめたのち、東大オケの仲間で、吹奏楽に詳しい友人から、この曲が本来は吹奏楽曲であることを教えてもらいました。シュトラウスが本来、書いたとおりの音源をカセットテープで聴かせてもらったことがあります。ずっとのちに、ある学生の吹奏楽団がこの曲を吹奏楽でやっているのも聴きました(本番を聴いたわけではなく、練習を聴いただけですが)。調は忘れてしまったのですが、とにかくこの曲の原調はニ長調ではないです。オーケストラ版でもなく、そしてニ長調でないラデツキー行進曲は、絶対音感のある私には驚きなのです。私にとってのラデツキー行進曲は常にニ長調ですから…。
そして、さまざまな楽譜の違いについても少しずつ詳しくなっていきました。当時はYouTubeなどというものもなく、CDやラジオで聴くのみでしたが、カラヤン指揮ベルリン・フィルの録音ですでにウィーン・フィルの用いている楽譜と異なります。オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団のCDを聴いたときは、そのあまりの違いに驚いたものです。そして時代は過ぎていき、私は中高の教員となり、オーケストラ部の顧問となりました。そして、あるとき、ラデツキー行進曲をやることになったのです。
経緯は覚えていません。しかし、当時、その団は、どこから来たのかもわからないコピー楽譜を使うのでなく、演奏する曲の楽譜はいちいち購入していました。お金のある学校だったものです。私はこの曲に決まったとき、銀座のヤマハに電話をしました。私は東京に住んでいたわけではありませんが、こういうとき、銀座のヤマハが最もたくさんの楽譜をそろえていることは知っていました。(ほかにもっと良い店を知っているかたもあるかもしれませんが、私はもう顧問をしていませんので、いま教えてくださっても意味はありませんよ。ご厚意だけありがたくいただきます。)上述の通り、ラデツキー行進曲には複数のバージョンがあります。その店にも在庫がいろいろありました。ドブリンガー社のものとそうでないものとで迷いました。ドブリンガー社というのはウィーンにある有名な出版社で、いま考えればそちらにすればよかったのです。私はかなり電話で楽譜担当の人と話をし、ホルンのパートおよびピッコロのパートから、ドブリンガー社でないほうの楽譜を選びました。値段はドブリンガー社のほうが高いのですが、予算的にはどちらもリーズナブルでした(つくづくお金のある学校であった!)。その楽譜を購入して失敗したのです!クラーク・マクアリスターという人物による編曲でした。私は勝手にこの人物を「シュトラウス界のアリスター・マクグラス」と呼んでいました(アリスター・マクグラスは著名な神学者。それ以上のことはわかりません)。詳細に楽譜を検討すると、おかしな点がたくさんあります。まず、ニ長調の曲(そして中間部はイ長調となる)で、A管クラリネットでなくB管クラリネットを指定してくる段階で相当におかしな編曲者であると言えましょう。A管のクラリネットならばフラットがひとつ、中間部はシャープもフラットもなくなるはずです。B管のクラリネットで書くと、シャープが4つとなり、中間部はシャープが5つとなります。クラリネットをやっている人の感覚からすると「信じられない」というレヴェルだと思います。そのほか、チェロのパートもかなりおかしく(おとなしくコントラバスと同様にベースラインを弾いていればいいものを、なぜか旋律を弾かせたがる。しかもその効果がほとんどない)、トロンボーンのパートもおかしかったと思います。そしてこの曲は「その年だけ我慢すればよい曲」ではなかったのです。この曲はその難易度および客受けのよさから、毎年恒例の出し物となったのです。いまでもそのオーケストラがこの曲のこの楽譜を使っているのかどうかまではわかりませんが。結論から言いますと、みなさん、クラーク・マクアリスターという人の編曲したラデツキー行進曲の楽譜を買ってはいけませんよ!
さて、私はこの曲をひんぱんに指揮しました。いったい何回、指揮したのかわかりません。定期演奏会などよりはるかにたくさんお客さんの入る演奏会で何度も指揮するチャンスに恵まれました。しかし、私はなかなか「ウィーン・フィルの指揮者のように」この曲を、お客さんのほうを向いて、手拍子を誘うパフォーマンスはできませんでした。あの、東大オケでやったときの指揮者が可能であったのは、プロの指揮者であったからだと思われました。2014年10月の演奏会でこの曲を指揮していないのは、そのときまだこの曲の楽譜を購入する前だったからだと思われます。(その日のコンサートのことも記事にしたことがあります。最後にリンクをはります。)しかし、ついに私がこの曲を「ウィーン・フィルの指揮者のように」客席のほうに向かって手拍子を誘うパフォーマンスをする気になるときが来ました。結果として指揮者として最後の年となった2016年の7月のことです。その日、私はモーツァルトのフルート協奏曲第2番の第1楽章を指揮しました。そのときのことも記事にしてありますので、最後にリンクをはりますね。フルートを吹いたのではなく、指揮をしたのです。そして、尺の問題もありましたが、おもに「出番の確保」という観点から、その日は、ラデツキー行進曲も指揮しました。モーツァルトのフルート協奏曲には、オーケストラのパートにフルートはなく、またクラリネットも打楽器もなく、彼らの出番を確保するために、手軽な曲としてラデツキー行進曲も演奏したのでした。
このとき、私はようやく、前奏を指揮したのち、客席に向かって手拍子を求めました。これは大変に成功しました。このときの録音と録画が残っていますが、みなさん喜んで手拍子をしておられます。とくに、客席にいるある女性が、満面の笑みで手拍子をしているさまが印象的に映っています。私はちゃんと手拍子の「大きい、小さい」もジェスチャーで示しました。ただし、この日、私は「手拍子の開始」を示すことはできても「手拍子の終了」を示すことができなかったので、一度スタートした手拍子は鳴り続けました。これについてはアンケートで書かれました。また、客席に向かった私の愛想がよくなかったことについてもアンケートで書かれました。そして、これらの意見を反映できるチャンスもめぐって来たのです。
同じ年、2016年の11月のことです。やはり同じ学生オケで、今度はベートーヴェンの交響曲第7番の第4楽章を指揮するチャンスがめぐってきました。この日のことを私がnoteで書くのは初めてであると思われます。「ベト7」の話をしたことはないと思います。この日はモーツァルトの協奏曲の日とは異なり、「降り番救済」の意味合いはなかったのですが、おそらくその7月の私のパフォーマンスが好評だったからだと思われまして、ラデツキー行進曲が選曲されました。ベト7の第4楽章を指揮したのち、私は「ラデツキー行進曲」を指揮しました。今回もお客さんの手拍子を誘ったのみならず「手拍子の終了のタイミングをきちんとお客さんに示す」「笑顔で」という2点に注意することができました。いずれも成功しました。この日の録画は残っていませんが、録音が残っています。たしかに7月に不可能であった「手拍子をストップする」指示ができていることは、録音から明らかです。私はかの東大オケの指揮者よりもずっと厳密にお客さんの手拍子をコントロールしました。お客さんの手拍子するタイミングをはっきり決めて臨んだことがよかったのでしょう。
そして、これが私の指揮者としてのラストステージとなりました。その年度の定期演奏会は、私は指揮でもフルートでもピッコロでも出番が与えられず、ドアの開閉係だけやらされたことは前にも書きましたので割愛します。私は明らかにフルートよりもピッコロよりも、「指揮者」が向いていたのです。フルートに当たったのは「楽器ガチャ」であると言えましょう。もともと私が「フルート向き」の人間であったとは思えません。しかし、指揮者は向いていたのです。典型的に「耳で指揮する」タイプであったと言えましょう。その指揮者としての最後の私の曲が、ヨハン・シュトラウス1世の「ラデツキー行進曲」であったのです。
以上です。以下に3つの関連する記事のリンクをはりますね。祝典演奏の記事、2014年の指揮者として最も多忙だった日の記録、そして、モーツァルトのフルート協奏曲第2番を指揮した話の3つです。
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