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自由、名声、富

(この記事は、ふだん私の記事をよくお読みくださるかた向けの記事です。通りすがりのかたがお読みになっても「なんだこいつ」ということにしかならないと思いますので…)

7、8年前に、沖大幹『東大教授』という本を読みました。どこかへ出かけたときに帰りの新幹線で読むために買った本だと思います。とてもいい本でした。

著者は、(少なくとも当時)現役の東大教授でした。久しぶりに私は研究の世界について思い出しました。研究の世界の、途方もない厳しさ。そして、それをも上回る楽しさ。そして、それをも上回るとてつもない厳しさ…。それらについて、あますところなく書かれていました。思わず襟を正して読むような本でした。研究者を志す人にはぜひお読みいただきたいと思います。

著者が「東大教授」と書いて言っているものは、大概の大学教授で言えます。いや、正確には「名門の大学教授」なら当てはまることだと言えましょうか。そのなかでも、おそらく多くの人が印象に残ると思う言葉を、(またも記憶に頼って)引用します。すなわち、自由と名声と富、この3つがそろう職業はなかなかないと言われます。たとえば自由と名声があったら富はないとか(そういう人、存じ上げています)。名声と富があったら自由がないとか。そして、この3つが奇跡的にそろう数少ない職業が、東大教授だと言うのです。

東大教授に限りませんな。名門大学の教授なら、この3つはそろうと言えるでしょう。

だんだんわかってきたのは、いわゆる「低い」大学の先生は、この3つはそろいません。そういう大学の先生も多数、知り合いにいますが、皆さんたいへんです。

そして、私は、実力からすれば、名門大学の教授になれていたはずなのだ!ここから先は極めて恥ずかしい記述になります!

大学院の先輩・同輩・後輩のほとんどは、名門大学・名門大学院の教授あるいは准教授になられています。名門大学ばかりなのは、数学科をおく大学は一定水準以上だからだとわかってきました。例としては「東工大教授」「東北大教授」「東大准教授」といった感じです。まだ「東大教授」こそいませんけど。(いや、今年の4月からなった人がいないわけではあるまい。こうして当時の先輩・同輩・後輩の名前でときどき検索する自分があわれ。)私はその人たちに優っていたとは言わないものの、決して劣っていたわけではないのだ!

考えてみると、いまの私は、自由、名声、富の3つがそろわないどころか、3つとも持っていないということに気づかされます。自由…いま、名前も顔も出せないくらい不自由です。名声…まったくありませんね。みんなからバカにされています。富…ものすごく貧乏で非常に困っていますね。

「世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、行け」。有名な讃美歌の一節ですが、もうくそったれとしか言いようがないです。「来たれ、来たれ、苦しみ」。こんな讃美歌もあったと思います。かんべんしてくれ。かろうじて以下の聖書の言葉が胸に響きます。「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である」。私はもう、「ほめられない人生」を歩むしかない。私が順調に数学者になっていたら見えなかった人生の真理が、いまの私には見えていたりするのです。これは決して負け惜しみではありません。いや、やっぱり負け惜しみかもしれない。だってこうして「自由、名声、富」などという記事を書いているから。よく言われるのですよ、お前なんかに数学者になれていたはずはないと。でも、私はなれていたと思います。発達障害の二次障害さえなければ。

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