クリスチャンでない人のほうがキリスト教への理解が深い可能性
私のフォロワーさんのクリスチャンの割合は、およそ2割くらいだと思います。フォロワーさんの8割はクリスチャンではないと考えられます。日本のキリスト教人口は全体の1%であると言われますので、20%もいる私のフォロワーさんは確かに「クリスチャン多め」です。しかし、かつてツイッターをやっていたときはこうはいきませんでした。ツイッターは強烈に「同じ傾向の人」が集まるように構成されていました。ほとんどのフォロワーさんはクリスチャンだったのです。「話が合う」ためだと考えられます。一方でnoteというのは「考えの違う人とやり取りするのはおもしろい」からこそ、こういう仕組みになっているのだろうと思っています。しかし、そういうクリスチャンでない読者の皆さんからの反応を拝見していて思うことがあります。「クリスチャンでない人のほうがキリスト教への理解が深い可能性」です。
「傍目八目(おかめはちもく)」という言葉があります。囲碁をしている本人たちよりも、はたで見ている第三者のほうが先手(八目も先!)を読んでいるという意味で、転じて、当事者でないほうが客観的に物事を見ることができる意味で使う言葉です。クリスチャンでない人は、キリスト教をはたから、客観的に見ることができるため、かえってクリスチャンよりキリスト教への理解が深い可能性があるのではないか。これは宗教に限らず、企業や学校の評判などにも言えることではないかと思います。第三者のほうが客観的な判断がくだせる例はたくさんあるような気がします。
茂木大輔さんというオーボエ奏者で指揮者のかたがあるときテレビに出ていました。だいぶ前の話です。バッハの「マタイ受難曲」について解説していました。おそらく茂木さんはクリスチャンではありません。「マタイ受難曲」は、新約聖書の「マタイによる福音書」の受難物語に音楽をつけた曲です。茂木さんは、「ペトロの否認」(ペトロがイエスを3回知らないと言った話)について、深い共感をもって熱を込めて語っておられました。それは並みのクリスチャン以上の深い共感でした。これも茂木さんがクリスチャンでないからこそ語れた内容ではないかと思われました。
「食べログ」などでもそうですね。フランス料理など作れない人がフランス料理のレビューを書いています。おそらくとんちんかんな感想もあることでしょう。しかし、フランス料理が専門の人からは決して出ないレビューもあるだろうと思います。あるいは、Amazonの「聖書」のレビューのかなりの割合を占めているのが、クリスチャンでない人のレビューであることも留意すべき点かもしれません。
ときどきnoteでも、クリスチャンがキリスト教について書いた記事があります。しかし、残念ながらその多くは、「ひとりよがり」であり「クリスチャンどうしでしか通じない話」であり、あるいは非信者向けに書いた話でも「どうです、キリスト教ってなかなかわかりやすいでしょ?」という無自覚的に上から目線のものを感じたりします。これは「キリスト教内部の人間である」限界だろうと思います。かくいう私も内部の人間です。でも、私は聖書を何度も読むうち、そこに書かれているのは決してキリスト教という宗教のことではなく、人間に共通するなにかであると感じるようになりました。ですので、私は8割のフォロワーのかたがクリスチャンではない状況で、キリスト教の話も書き続けたいと思います。これは広い意味では「布教」ですが、せまい意味では布教ではありません。宗教って広い意味で取れば「人生そのもの」ではないかと考えられるからです。私は「キリスト教に興味がある」というよりも「人生そのものに興味のある」人間なのです。