ひろさちやさん追悼
宗教評論家のひろさちやさんが、今月(2022年4月)の7日に亡くなっていたことを知りました。どうしてもひろさちやさんについて書いておきたいと思いました。
最初に「宗教評論家」と紹介いたしましたが、それはウィキペディアの書きかたを真似しただけでありまして、実際には「宗教タレント」とでも言いますか…。それも、かなりピークを過ぎていたと思いますので、多くの人がひろさちやさんの訃報に接して思うことは「ひろさちやってまだ生きていたのか」ということではないかと思います。
私がはじめてひろさちやさんの本を読んだのがおそらく高校1年のときです。『わかりやすい般若心経』みたいな感じの本だったと思います。そのときはたいした印象ではありませんでした。あまりにも「俗っぽい」本だったからだと思います。それは30年以上前の話です。私がひろさちやへの先入観をくつがえされたのは、いまから5年前、2017年の頭のことです。
2016年度の後半、私はある中高で、教員をしながら、司書教諭の勉強をさせられていました。詳しい事情は省きますね。当時「調べ学習」と呼ばれるものが司書教諭の勉強のなかに出て来ました。この概念は「探究学習」になってみたり、数年で呼び名が変わるので、いま、どういうふうに呼ばれているのかわかりません。図書館を活用した授業も「調べ学習」のひとつでした。敵ばかりの学校でしたが、全員が敵ではありませんでした。ある「聖書」の教員で、仲の良い人がいました。その学校はキリスト教の私学で、「聖書」という教科がありました。通常の学校で「道徳」と言われているものです。その聖書科の先生に、図書館を活用した「調べ学習」の提案をしてみました。その先生は「ぜひやってみたい」と言い、案として2つを挙げられました。ひとつは、「マザー・テレサ」「キング牧師」「ガンジー」といった人物に焦点を当て、生徒に調べさせること。(それはキリスト教に限らなかったですね。ガンジーはヒンズー教の人です。)もうひとつの案が、「仏教」「キリスト教」「イスラム教」「ユダヤ教」「神道」「儒教」など、いろいろな世界の宗教についてチームで調べさせること。おもに中学生にやらせたいと言っていました。(おそらくその中高は生き残りに必死な三流進学校であり、高校生となると「勉強しろ」「勉強しろ」という雰囲気になるため、その先生は、「図書館を活用して宗教について調べさせる」みたいな授業は、中学生向けであると考えたのだと思います。ただしその先生がほんとうにその案で「調べ学習」の授業をやったかというとやっていない気がしますが。それは私が実際には司書教諭になれなかったことが大きいとは思います。)後者の「世界の宗教について調べさせる」という案は当時の司書さんに受け入れられ、その「有能な」司書によって、多数の「世界の宗教」という言葉が書名に入る本が購入されました。そのうちの一冊が、ひろさちや著『面白いほどよくわかる 世界の宗教/宗教の世界』という本でした。その時点で「ひろさちやってまだ生きているのか?」という雰囲気でした。その司書もそう言っていました。正直に言って、私もそのように感じました。ひろさちやは「ピークの過ぎた宗教タレント」だったのです。そして、司書教諭の勉強の終わった(極めて優秀な成績でパスしたのですが、手続きで1年がかかり、そのあいだに私は「司書教諭」ではなく、教員ではなく事務員にさせられ「学校司書」にさせられました。この「司書教諭」というものと「学校司書」というものは根本から異なる概念なのですが、この違いをきちんと認識している人が私のほかにはいませんでした)私は、ある別のもう少し良心的な派遣の司書さんに、この時間を利用して、そのたくさんある「世界の宗教」という書名の本を読んでみることをすすめられました。そこで、時間的に余裕のあった当時の私は、それらの本をたんねんに読みました。世界の宗教について、なるべく偏らないように書いてある本も少なくありませんでしたが、ひろさちやさんの本は、著者自ら書いておられましたたとおり、思い切り著者の主観の入った本でした。しかし、私は、「ひろさちやは本物だ」と感じ入ったのでした。平易な本ですが、ほんとうにすごい本だったのです。宗教の本質が書かれていました。
その本はいまは手元にありませんし、5年前に1回、読んだだけです。記憶を頼りにこの記事を書くよりありません。ひろさちや氏は「インチキ宗教」という言葉を導入していました。いま、この本が手元にあって参照できるならば、この記事の精度はずっと上がるでしょう。とても残念です。でも、ひろさちやさんの言いたかったことはよく覚えています。「いっしょうけんめいがんばって、立派な人物になれ、とハッパをかける宗教はインチキ宗教だ」という主張です。この言葉は本物の宗教家の言葉です。私はひろさちやさんのように、世界の宗教について、幅広い知識は持っておりませんが、これが宗教の本質であることは、深く共感できることです。人は、自分の力で立派な人間になることはできません。「人はみな罪人(つみびと)」なのです。自分の力で自分を救うことができないからこそ、神様や仏様に頼るのであり、自分ひとりでは生きられないから、神様、仏様、そして人様に頼って生きて行くのです。人は助けてもらわないと生きていけないのです。これが本物の宗教です。ひろさちやさんは、宗教の本質を見抜いておられた。これは、どんなに「偉い」宗教家でも、見抜いていない人は見抜いていません。私はその本を読んで「ひろさちやは本物であった」と思ったのでした。
その本が手元にないのは、もちろんその職場をやめているからですが、2か月前にやめさせられるときに確認しました。私はその学校のナンチャラ会員になるのであって、図書館を利用する権利があるのでした。しかし、私が学校司書であった(くどいようですが、「司書教諭」ではなく「学校司書」です)2017年度、2018年度に図書部長であって、私にはなはだしいハラスメントをしてきて、私を第2回ダウンに追いやり、さらには私を総務に追いやり、2か月前にやめさせた人物は、いまでも図書部長でした。私が先日、(ずっと会社都合退職だと聞いてきたのにいきなり自己都合退職にさせられて納得がいかなかったので)学校に行ったときに、書庫のなかに読みかけの本が複数あり、また読みたい本が複数あったため、書庫の本を借りられるかどうかを前日に事務に電話し、「図書館に聞いてください」と言われた(私は事務からも充分に嫌われていました)ことがありました。私がその用を終えて図書館に寄ったとき、そのハラスメント部長と例の司書がおり、事前に聞いていたためだと思いますが、顔色ひとつ変えずに、彼は私に図書館利用の以下の5つの条件をすらすらと述べたのでした。
① 図書館を利用するときは事前に書面で許可を取ること。
② 図書館の利用は平日の午前中に限る。
③ 滞在時間は1時間まで。
④ 一度に貸し出せる冊数は5冊まで。
⑤ 書庫の本は貸し出せない。
このうち、明らかに①②③の3つの条件はおかしいわけです。皆さんも想像してみてください。図書館を利用するにあたって、事前に書面で許可を取らなければならない図書館なんてありますか?「何月何日、何時何分に、図書館にうかがってもよろしいでしょうか」と、84円切手をはって、許可をとらなければならない図書館をご存知でしょうか。もし、そういう図書館をご存知ならばぜひコメントでお知らせください。もちろん、許可を取る必要があるということは「不許可」という事態も起きるわけです。それから、その図書館は、365日、開館していることを売りにしています。私はそこの職員だった時代に、むしろ「日曜の午前だけでも閉館にしては」と言ったほどです(これは細かい話ですが、その学校は先述の通りキリスト教の学校であり、キリスト教では日曜日は安息日として「厳格に休む」ことが多く、このような三流学校ではないもっとまともなキリスト教の学校で「日曜日はしっかり休む」学校も多いことは、とくに首都圏にお住まいのかたはご存知かもしれません。せめて日曜の午前は礼拝の時間であって、日曜の午前まで開館しているのはキリスト教学校として節操がないのではないか…と思ってそう発言したのですが、私の発言は徹底的に通らない職場なのでした)。とにかく、そのナンチャラ会員だけ、「平日の午前のみしか利用できない」ということは不思議なルールです。「滞在時間は1時間まで」というのも図書館としては不可解なルールです。しかし、ある意味でこれらの「不可解な」ルールは、とてもよくわかるルールです。ようするに私向けのルールなのです。いかに私がこの学校で、とくにこの図書館で、とくにその図書部長から嫌われているかがよくわかるわけです。そう見て来ると、④⑤もおそらく私向けのルールであることがわかってきます。その学校の図書館は、(通常の場合、)貸出冊数の制限はありません。さらに、生徒だけ書庫の本は借りられませんが(閲覧は可)、教職員は書庫の本も借りられるのです。私が、書庫の本で借りたい本があることを知っていての「嫌がらせ」のルールであることはだいたい想像がつきます。私が墓穴を掘ったのです。電話などせず、いきなり現れれば、(なにしろクビになった元職員が急に現れることになりますから)さすがの図書部長も、いきなりこれだけ用意周到な嫌がらせルールをスラスラと思いつくことはなかった気がします(あったかもしれませんけど)。よほど私は「そのルールの根拠はなんですか。どこに明文化されていますか?」と詰め寄ろうとしましたが、あまりにもその図書部長が、2018年に私をハラスメントしていたころとまったく同じ調子で、情け容赦ない感じであったので、「この部長は、私がクビになったあとまで、私にハラスメントする気か?」みたいな感じでちょっとひるんでしまい、詰め寄ることもできずに言うなりになってしまったのでした。あの書庫の本で中途半端になってしまった読みかけの本、とくにいま入手困難である貴重な本が読めないのは痛い!
そのようなわけで、その図書館には、「何月何日何時何分にうかがってもよろしいでしょうか」という紙を書き、84円切手をはって許可を取らないと行けません。許可が出ない可能性も大きいです。そもそもそのルールは「来るな」と言いたいわけです。「そんなむちゃくちゃなルールがあるか」と図書部長に詰め寄る度胸も私にはありません。(だいたい私は賢い人には尊敬されるものの賢くない人からはバカにされる傾向にあるので、戦う相手を間違えていると言えますし。)ちなみにその司書(この人も私を嫌っています)も同罪です。そんなむちゃくちゃなルールの図書館があるはずはないので、そのルールを図書部長が言った瞬間に「そんなむちゃくちゃなルールはないですよ」と言うのがまともな司書ですが、穏やかな表情を変えずにその図書部長の発言を聞いていたので、同罪と言ってよいでしょう。そんなわけで、そのひろさちや氏の本はもう借りられないのです。それに、その学校へは地下鉄で往復が480円もします。本が買えてしまいます。私が、障害者手帳を取得したら、その地下鉄は無料になるのですが。それはともかく、そのひろさちやさんの本が手元にあったら、どれほど精度の高い記事が書けるかわからないのですが、とにかくいまの私はお金がありませんし、残念ながら、その本は記憶に頼って書かざるを得ないのです。
もう少し、ひろさちやさんから脱線して、図書館の話をしましょう。たまたま今日の話です。私はある大きな図書館の会員ですが、そこからメールが届きました。マイナンバーカードで本が借りられます、というお知らせでした。私が司書教諭の勉強をしていた5、6年前、これに反対していたある作家(名前失念)の話です。「私は国に、自分が何の本を借りているか、知られたくない」という話でした。これは、私はきちんと司書教諭の勉強をしたからわかります(くどいですけど、私がしていたのは「学校司書」であって「司書教諭」ではありません。司書教諭の資格は、1年後に届いたときにはすでに紙くずでした。受講料はなぜか自腹でした。なぞです)。「図書館の自由」というものがあるのです。ほとんどの人はこれをご存知ないと思いますので、このさいなので覚えていただきたいと思い、書きます。重要なポイントがいくつもあるのですが、ここで書きたいのは、図書館は利用者の秘密を守るとい点です。図書館というものは、誰がどの本を借りているのか、漏らしてはいけないのです。このことは、皆さんも図書館を利用なさるときに、覚えておいたほうがよいと思います。自分が何の本を借りているのか、図書館は漏らしてはいけないのです。ところで、その図書部長の最初のころ、ある理系の生徒諸君のあいだで、哲学の本を借りるのが流行りました。おそらくその図書部長は、それが好ましい傾向であると思ったのでしょうが、図書館報にそのことを書きました。しかし、彼の書きかたは、だれがその哲学書を借りているのか、わかる書きかたでした。これは、利用者の秘密をばらしているのであり、「図書館の自由」に反します。彼は司書教諭の資格を持っており、きみ(私)よりもずっときちんと司書教諭の勉強をしたと豪語していたこともあります。しかし、このように彼は図書館の基礎的なルールも破っています。これは、その司書も見逃している時点で同罪であり、さきほどの少しマシな派遣の司書も、気づいていないのか、気づいていても言えないのか知りませんが、同罪です。その意味では私も同罪でしょう。私の場合は気がついていたものの言えなかったわけですが(もっとも私は図書館報の校正すらさせてもらえないのであり、図書館報が出てから知ったことですから、いずれにしても未然に防ぐことは不可能でしたけれども)。そのようなわけで、皆さん、図書館で借りる本について、誰にも知られないのは、当然の権利ですよ!マイナンバーカードで本を借りたら、借りている本が国にばれていますよ!
だいぶ脱線しました。とにかく、ひろさちやさんのおっしゃることはもっともでした。ひろさんは決して「ピークの過ぎた宗教タレント」ではありません。ご自身もその本に書いておられたと思います。「最近は私もバカにされていますよ」と。もう一度書きますが、ひろさんの言われる通り、いっしょうけんめい努力して、立派な人間になれ!とハッパをかけてくる宗教はインチキ宗教です。とにかく自分の力では自分のことがどうにもならないくらいどうしようもない存在なのが人間なのですから、自分の努力で立派な人間になれるはずがないのです。むしろ「私はとうてい立派な人間にはなりえません。これから私はダメ人間として生きて参ります」というのが本来の信仰告白です。だいたい、自分で自分が救えたら、神も仏もいらないではないですか!自分で自分が救える人はどうぞ自分の力で天国に行ってください。私はそれがとうてい無理ですからイエスさまに連れて行ってもらいます。これが、イエスさまであろうと、仏さまであろうと、どんな宗教でも、世界中の宗教で、このことが言えるということを言いきっているのがその『世界の宗教/宗教の世界』という本なのです。このことは「偉い」宗教家でも(ほど?)理解していなかったりします。私みたいなダメ信者のほうが直観的に理解していたりします。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました」(新約聖書マタイによる福音書11章25節)とイエスも言っています。知恵ある者や賢い者にはかえってわからない類のことです。ひろさちやさんは「最近は私もバカにされています」と書き、今月、亡くなったときも、おそらく世間の人は「ひろさちやってまだ生きていたのか」という認識が多かった気がしますが、そんなわけで、ひろさちやさんは「本物だった」のです。
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