健全な常識人
私の両親は健全な常識人です。社会的地位も高く、人望もあり、たくさんの友達がいます。いっぽうで私は非常識人です。小さいころからずっと叱られてきました。いまでも両親からは叱られています。このブログも両親は読んでいます。誰が教えたのか知りませんが、彼らは知っています。私は「そのうちひとりぼっちになるよ」と言われています。ひとにあつかましくするあまり、ひとが離れていくというのです。この葛藤、この洗脳に、どれだけ私が戦わねばならないか。ここには「信仰」が必要です。依存が必要です。ひとに頼るだけの勇気が必要です。ひとより下になる覚悟が必要です。恥は捨てねばなりません。
「聖書」という本は、およそ「健全な常識」からは外れています。「健全な常識人」には最も理解できないものが「聖書」でしょう。そういう人が聖書を読むと、きっと「きれいごと」に見えるのでしょう。「きれいごと」が言い過ぎなら「博愛精神」に見える。そして、そんな聖書を信じている人は気持ち悪く見えるのかもしれない。「教会は敷居が高い」というのと「宗教はこわい」というのとの、相反する気持ちの通じるところは、そこかもしれません。そこは健全な常識の通用しない世界です。私の両親は決して私をほめません。自分たちの理解できる(と自分たちで思うこと)は「当たり前だ」と言い、理解できないことは黙っています。私の言葉によってわかったという「なるほど」という言葉が彼らの口からもれることはありません。そんな人たちを相手にしてもしようがないのでしょうが、とにかく彼らは健全な常識人であり、空気を読んで、常識的に人と接します。そして自分たちの息子は非常識だと思っている。たしかに私は非常識でしょう。しかし、それは少数派だというだけで、言葉を変えて言えば「独創的」です。彼らは私を「ひとりよがり」と呼びます。そうでしょうか。私にはnoteのフォロワーさんでもこれだけおられます。話の通じる人はいます。そのたびに私は「自分のひとりよがりではなかった」と再確認することになるのです。
その「健全な常識」の正反対が書いてあるのが聖書なのです。健全な常識人のなかにもごりごりのクリスチャンはいるものですが、彼らがどうやって聖書を読んでいるのかわかりません。聖書の主役と言ってよいイエス・キリストが、およそ健全な常識とはかけ離れた人物であることからしても、健全な常識人と最も縁のないものが聖書だと言えるでしょう。
私の両親は健全な常識人です。立派な人たちです。社会的にも立派です。成功者です。母は自慢屋です。彼らは決して私をほめません。なぜなら私は非常識人だからです。しかし、私が確認するのは、彼らより私のほうがまともであることです。いや、まともなのは彼らのほうかもしれない。なぜなら彼らは健全な常識人だから。私のほうがまともではない。まともでなくていいから、私は聖書の価値観で生きて行きたいと思うわけです。無反省に「聖書」「聖書」と言ってすみません。聖書と言ってもいろいろなことが書いてあることは知っています。しかし、聖書は非常識な私の味方だと思っているのです。