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チェリビダッケとコロナ

 私が学生時代、存命であった指揮者で、セルジュ・チェリビダッケという人がいました。とにかく録音の嫌いな指揮者で有名で、CDは出しませんでした。私の学生時代は、もちろんYouTubeもなく、そもそもインターネットも黎明期で、情報はなく、ひたすら海賊版のCDが出回っていました。聴いた人は「すごかった」と言うのです。さまざまな論が出されましたし、チェリビダッケの死後、遺族がCD発売を許可したこともあり、もう議論は出尽くした感じがありますが、あえて今さら、チェリビダッケの「生(なま)」へのこだわりを、このコロナの流行と、私自身の長い休職のなかから感じたことがありますので、あらためてこのテーマについて、書いてみたくなりました。

 つまり、「生」で出会わないと、人って、出会った気にならないものなのです。それは、ひとそれぞれ感じ方は違うので何とも言えませんが、「直接、会う」ことには意味があります。チェリビダッケは、そういう生の出会いを大切にする人だったのではないか。生の演奏会に行くためには、チケットを買い、当日はきちんとした格好をしてホールに行き、じっくりと音楽を聴きます。そして、終わって食事をしたりするところまで含めて生の演奏会なので、これがCDをゆるしてしまうと、たとえばCDならば、寝っ転がってでも聴けてしまいますし、好きなトラックだけ、好きな回数、再生することも可能になりますし、その他もろもろ。

 コロナで、いろいろなものがオンライン化しました。会議もオンラインになり、教会の礼拝やミサでさえ、オンラインになりました。私は、仕事上、オンラインの会議などに参加したことはないのですが、たとえばよく聞くのは、上半身だけちゃんとした格好をしていればいいのであって、たとえば下半身はパジャマでもいいのです。口臭も伝わらないから、ちゃんと歯をみがいていなくてもだいじょうぶです。私も何度も経験のある「オンライン礼拝」で言いますと、教会へ行かなくてよい、パソコンのスイッチを入れるだけでよい、牧師の説教中に寝っ転がっていてもよく、寝ぐせが立っていても、ひげをそっていなくてもよい。それどころか、録画が残っているので、同時刻でなくてもよい。今日(2021年3月14日)は日曜日ですが、いまもう夜ですけど、私はまだオンライン礼拝を「見て」いません。それどころか、なにも付近の教会へ行くこともなく、全国どこの教会の礼拝を見てもよいのだ!そえはそれで恵みです。さまざまな事情で教会へ行けない人にとって、よかったことだと思います。(もちろん、インターネット環境にない人とか、ごく一部の人、電磁波過敏症の人にとっては、コロナはつらいと思います。)しかし、生で出会っていない。

 また、私は、昨年の5月から、休職しています。もうそろそろ、1年も休んでいます。給料はとっくに出なくなっており、経済的にも極めて厳しいですが、もっともつらいことは、外の世界とのつながりがないことです。やはり、インターネットのつながりだけでは、人は生きられないと実感しています。生で出会う人がいないとつらいです。私が、どんなにくだらない内容でもnoteを更新し続けるのは、そういった意味が強いと思います。だれかとつながりたい。もちろん、電話で話してくれる仲間、メールをやりとりする仲間の存在も大きいです。しかし、やはり生で人に会えないのは、苦しいです。「さびしい」のレヴェルではありません。「苦しい」のです。

 チェリビダッケにとって、音楽とは、そういう「直接、会う」ものではなかったのではないでしょうか。いろいろうわさされていたり、議論百出なのはわかっていますが、それでも私があえて今回、このテーマでこの文章を書いたのには、そういう意味もあります。チェリビダッケって、がんこおやじのイメージがありますが、意外と、こういう、人間的な感覚を持った人だったのかもしれないと、あらためて感じております。

 本日は以上です。お読みくださり、ありがとうございました。

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